日本人は極めて信仰深い国民だと思う。なぜなら、日本の中には祈りの習慣がたくさんあるからだ。例えば、大勢の人が「初詣」に行く。あいさつ文に「お祈りしています」と添える。子どもの成長に合わせて「祈りの習慣」がある。「追悼の祈り」がさまざまな時にある。「いのり」という名前はずっと人気がある。「子どもは天からの授かりもの」だと思う。乾杯の前に「祈念して乾杯!」と言う。探せばいくらでもその根拠が見つかる。
「日本人は多神教だから真の神様に祈っているわけではない」と言う人がいる。確かに創造主を意識しない人が多い。多くの場合、祈る対象をはっきりさせないで祈っている。初詣に出掛けるのは、昔から受け継がれる宗教行事に合わせているだけで、神社のご神体についてはほとんど関心を示さない。それどころか宗教嫌いの人が多く、宗教にとらわれず、祈ることに意味があると考えている。
信仰の対象が明確でないということは、数多くの偶像に囲まれながら、実は偶像に心を奪われていないことを意味している。本来、偶像は信仰の対象として造られ、人々を真の信仰から遠ざける危険がある。しかし、現代社会では、偶像礼拝は単なる宗教行事の場にすぎず、人々はその場を利用して個人的な祈りを積んでいる。
私は、形骸化した仏教の法事に参加して、仏壇の前に座り、天地を造られた神様に向かって参列者にも聞こえるように祈りをささげたことがある。キリスト教用語を避け、その場にふさわしい祈りの言葉を選んだこともあり、そばにいたほとんどの人は、私の祈りに共感し心を合わせてくれた。
確かに、参列者に寄り添い、配慮をもって祈るなら、仏式の法事でも十分に受け入れられる要素がある。しかし、だからといって仏式の法事をキリスト教の記念会に変えてしまうことは容易ではない。
先日、長年のお付き合いをさせていただいた女性が、長寿をまっとうされて亡くなった。その方は、既に亡くなられたご主人が仏教寺院のお仕事をされていた関係で、生前から葬儀内容や戒名、さらにお墓のことも仏教関係者によってあらかじめ決められていた。
私は、生前から何度もこの女性を訪問し、よく手を取って祈ったが、私の祈りに心を合わせてくれていた。賛美歌も数曲ご存じであった。ご本人と3人の娘様のうちお2人は、ミッションスクールを卒業され、喪主を務められたご長女は、洗礼を受けておられた。
長年寄り添った方が召され、喪主がクリスチャンであるケースでは、葬儀の際に司式を頼まれることもあるが、今回はそのような申し出は一切なく、葬儀は当然のように仏式で行われた。
私も葬儀に参列させていただいたが、参列者の多くが仏教の習慣の中にある家族らしく、配布される経典を一緒に読み上げ、模範的な仏式葬儀の姿勢を示されていた。私も仏教の経典を開いて、その意味を理解しようと試みたが、難しくて意味が分からず、儀式の形だけを合わせていた。
3人の娘様たちは、皆、結婚されているため、この家に受け継がれてきた仏教宗派の習慣を受け継ぐ者は誰もいない。故人の葬儀は、仏教寺院に関わっていたかつての夫から故人が受け継いだ宗教文化に沿って行われたのである。
3人の娘様の中で、離婚をされている喪主のご長女だけが、ご自分の葬儀の際にはご自身の信仰に基づき、キリスト教葬儀の司式をお願いしたいと私に申し出てこられた。離婚されたことにより、実家だけでなく、嫁ぎ先の宗教からも解放されたということなのだろう。
日本においては、宗教はたとえそれが形骸化しようとも、先祖から受け継ぐべき文化であり、責任が伴っている。宗教を変えるには、十分な配慮のもと、親族が納得できる理由とタイミングが必要である。簡単に扱えないのである。
しかし、信仰は個人の内面に留めている限り、自由に選べる大切な心の支えになる。その内容を口に出すと、扱いにくい宗教に触れることになるので、ほとんどの人は祈りの対象を意識することなく、黙して祈るようにしている。日本人が極めて信仰深く、かつ宗教嫌いなわけがここにある。
私たちの日本宣教は、このような日本人を対象にしていることをもう一度認識すべきである。宗教を変えることのできない多くの人々に寄り添い、彼らの宗教文化の中で、大切な信仰を創造主である真の神様に導いてさしあげたいものだ。
たとえ、それがキリスト教文化とは異質のものであっても、イエス・キリストの福音は柔軟に多くの人を潤していくだろう。時が来れば、日本人らしい独自のキリスト教文化が芽生え、それが日本文化そのものになっていくに違いない。聖霊に導かれ、ためらうことなく日本の異教文化に寄り添う献身者が求められている。
さあ、下に降りて行って、ためらわずに、彼らといっしょに行きなさい。彼らを遣わしたのはわたしです。(使徒の働き10章20節)
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