進化論とは、「現存する生物は、自然発生した単純な生物が、原始形態から次第に変化発達してきたものである」という生物学上の仮説である。日本では、明治時代以降に広く普及し、現代では当たり前のように受け入れている人が多い。
進化論をうのみにしていると、創造主の存在を前提としている聖書信仰の大きな妨げになる。日本宣教にとっては、克服したい課題の一つなのだろう。
幼い頃から昆虫や動植物に親しんでいた私は、かつて自然科学博物館に出向いては進化論の記述に触れてきた。多くの化石の展示とそれらの生物をつなぐ進化の系統樹を当然のように受け入れ、何の疑問も持たなかった。
ところが、聖書信仰を持つ過程で、進化論を調べて知ったことであるが、生命の起源を探るための科学者の努力は、地球上のあらゆる条件を考慮しても、生物は自然発生しないという結論を既に導いていた。
仮に、深海や宇宙にある未知の条件下で何らかの生物が誕生できたとしても、進化については、証拠もなければ、進化を促す条件もいまだ見つかっていない。化石を調べる限り、完全な生物がある時期に突然現れ、その中で多くの生物が絶滅したことが分かるだけなのである。
通常の仮説であれば、既に否定され、消えていてもおかしくないのだが、進化論だけは、多くの反例が見つかるたびに、複雑な仮説の上塗りが提唱され、ますます混迷を深めている。他に有力な仮説が見つからない以上、この状況は今後も変わらないだろう。
キリスト教会の中には、よく混迷を深める進化論に対して創造論を持ち出す人がいる。聖書によれば、すべての生物は「種類に従って神様によって創造された」と書かれてあるからである。
確かに、創造論を持ち出せば、生物の誕生も、進化の痕跡がないことも、説明がつく。科学の進歩は、聖書の記述の正しさを証明してきているようにも思う。
しかし、進化論と創造論を科学的に検証し、比較するような取り組みは、科学的に進化論を追い求めようとする未信者を失望させるに違いない。
創造論というのは、科学的に証明が不可能な神様の創造を前提にしている考え方であり、そもそも進化論とは土俵が異なっているからである。創造論は科学ではない。
科学的な探求を日々実践している進化論者にとって、科学ではない創造論を持ちかけられても、肩透かしを食わされた気持ちになるだろう。
聖書信仰を持つ私たちにとって、神様による天地の創造は信仰によって得られる事実ではあるが、科学的に創造論を証明できるような錯覚を起こさないように気を付けたいものである。
未信者の進化論者は熱心にその仮説を科学的に追及しているのであり、聖書信仰を持つ私たちは、彼らの熱心さに寄り添い、彼らと科学的な議論のできる範疇(はんちゅう)で会話をすることが大切である。
かつて私が自動車会社の研究所で触媒開発に携わっていたころ、昼のリラックスタイムに業務と関係のない話題を話し合う時間があった。化学分野で高い教育を受けてきた若者たちに「生命の起源」についての議論を持ち出してみた。
皆、さまざまな意見を語ったが、結局「最初の生物は宇宙から来たのか、神様が創ったのだろう・・・」というような話で終わったように思う。信仰とは縁のない若い研究者たちの短い議論だったが、進化論を持ち出す者は誰もいなかった。
忙しい仕事の合間の雑談時間だったので、それ以上の議論にはならなかったが、触媒開発を通して多くの材料物性に触れている専門家たちだけに、複雑な構造を持つ生命体が自然発生するはずがないことを感じていたように思う。
まして、日々熱心に進化論を探求する者たちの中には、口に出さないまでも創造主をイメージしている者が多いことだろう。進化論が行き詰まっていることを最もよく知っているのは、他ならぬ科学的に進化論を探求している者たちに違いない。
創造論を持ち出す前に、進化論者と歩調を合わせて、熱心に科学的な議論ができるようになりたいものである。きっと優れた進化論者の口から創造主の存在がささやかれるだろう。その時こそが創造論のふさわしい出番となるに違いない。
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