人は、成長の過程で少しずつ自分の視座を高くすることを学んでいく。幼いころは、見たり聞いたりしたことをそのまま受け入れるが、経験を積むに従い、物事の背後にある社会の構造や歴史の背景、人の心の動きなどにも配慮できるようになる。
一段高い視座に立って、その場の状況に応じた対応ができるようになることは、立派な大人になる条件であり、本来歓迎すべきことである。
ところが、幅広い知見を持っている視座の高い政治家が、その能力を活かすどころか、一般市民の感覚を失ったかのような高慢な言動をするのをよく耳にする。
何も政治家に限った話ではない。自らを振り返っても身につまされることは多い。人は自分の視座を高くするときに、視座の低かった時代に持っていた大切な謙虚さを失ってしまう傾向がある。
あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、入れません。(マタイの福音書18章3節)
救いの条件は、「福音を信じること」である。福音とは、イエス・キリストの十字架と復活によって罪が赦(ゆる)され、永遠のいのちの保証が与えられたことを指す。
しかし、この聖書箇所では「悔い改めて子どもたちのようになる」ことを救いの条件としている。もちろん聖書が別のことを言っているのではなく、福音を信じるための大切な心の備えを伝えているのだろう。
私は、かつて無認可保育所の園長を10年ほど経験したことがある。小さな保育所だったので、100人程度の卒園児を送り出したにすぎないが、未信者家庭の子どもたちの多くが信仰を持つに至った様子には大変励まされていた。
幼い子どもにとって、信仰はすでに彼らの中に備えられているようだった。低い視座から、天地を造られた偉大な神様に、親しく、大胆に祈りをささげるさまは、それからの私の人生の目標になってきた。
家庭の事情で保育所を閉じてから20年以上が過ぎたが、最近、人のエンディングに関わるようになり、幼子のような信仰の姿勢を、弱さを抱える高齢者から学ぶことが多くなったように思う。
日本では、平均寿命が延びて世界一の長寿国になったが、同時に平均寿命と健康寿命の差が10年近くあることがよく語られるようになった。
誰かに助けてもらわないと生きていけない時代が10年近くもある。その間、成長して高い視座を得ていく過程とは逆に、弱さを抱えながらゆっくりと死に向かい、視座を低くされる時間を長く味わうことになる。
誰も体の機能が衰えることを望んではいない。できていたことが次第にできなくなり、死に向かっていくのを受け入れるのはつらいことである。しかし、一方で、図らずも視座を低くされ、信仰を得て永遠のいのちの恵みに浸る人もいる。
体のすべての機能が衰え、死を待つばかりの人が、低い視座より、自分の人生に感謝し、天の御国に希望を抱き、天地を造られた神様に大胆に祈る姿は、残される家族だけでなく、多くの人々に慰めと励ましを与える。
そして、そのような姿勢を持って召されていく人の死は、関わる人々の心に永遠の希望という「豊かな実」を備え結ぶ。
まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。(ヨハネの福音書12章24節)
この言葉は、直接的にはイエス・キリストが十字架にかけられ、死んで葬られた後、墓より復活され、そのことが多くの人々に永遠の希望を与えることを示している。しかし、キリストを信じ、希望を持って召されていく人を通しても、同じことが起こる。
私たちは、死に向かう弱さの中で、視座を低くされることを感謝して受け入れたいものである。すべてを失っても、信仰と希望と愛は、いつまでも残る。そして、それらは残されるものへの大切なプレゼントとして受け継がれていくだろう。
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