どんな人生にも、つらい時、悲しい時が必ずやってくる。そんな逆境の時に、傍らに寄り添ってくれる人の存在は貴重である。信仰を持つと神様が寄り添ってくださるのは確かだが、寂しさを分かち合える人が傍らにいないのはつらいことである。
かつての日本では、家族の人数が多かったこともあり、それぞれが役割を担い、寄り添い合っていたように思う。しかし、現代社会では、核家族化が進み、さまざまな便利な道具に満ち溢れているが、肝心の寄り添ってくれる人が少なくなってしまった。
少ない家族の中で、大切な人が亡くなるときは、つらさが身に染みる。生前に立派な功績を残し、葬儀式に大勢の人が駆け付けるような人であっても、葬儀式後しばらくすると、潮が引くように、寄り添う人がいなくなってしまう。
仏教式の葬儀の場合、葬儀式の後、法要の習慣があって、僧侶が定期的に訪ねてきて、仏壇の前で読経を唱えてくれる。法要を義務と考えると窮屈になるが、遺族のことを気遣って訪問してくれる人がいるのは有り難いものだ。
仏教式葬儀が日本に定着したのは、江戸時代の檀家制度に起因する。檀家制度とは、欧米の植民地政策の脅威に対し、キリスト教を弾圧する必要に迫られて江戸幕府がとった宗教統制政策である。
現代の日本においては、前述のような檀家制度の存続理由はなく、信教の自由は保障されている。それでも日本人の多くが、仏教式葬儀をずっと選び続けている理由は、葬儀後における法要の習慣が、家族親族の絆を確かめる場となり、遺族が慰めを受けてきたからだろう。
一方、キリスト様式葬儀を挙げた後はどうだろう。残念ながら、仏教の法要のように、牧師が定期的に遺族を訪問する習慣は存在しない。もちろん、牧師がそのことに無関心ではないと思うが、習慣もなく、依頼もされないのに訪問を繰り返すのは難しいのが実情である。
今のところ、葬儀式の後、遺族にどのように寄り添うかは、葬儀式を司式された牧師に委ねられている。さまざまな手法があると思うが、牧師によっては丁寧な対応をしてくださる。
先日、一人の牧師がうれしい知らせを届けてくれた。その牧師には、度々葬儀の司式をお願いしていたが、先日のイースター礼拝に、5人の遺族が教会に集ってくださり、それぞれが故人を偲ぶ言葉を語ってくださったようである。
これらの5人は、いずれも所属教会がなく、霊的な側面を支える牧師がいない方々だった。ご家族の葬儀の際には、ネット検索で当社を見つけてくださり、葬儀を通して牧師と知り合ったのである。
大切な家族を失ったつらい時期に牧師から慰めを受け、信頼してくださったに違いない。牧師の牧会する地域教会に足を運び、面識のない教会の方々を前に、故人を紹介し、葬儀を通して得た慰めを共有してくださったのである。
遺族にとっては、牧師を通してキリストの体である教会につながる体験をされたことだろう。また教会に所属する方々にとっても、遺族の話を聞いて、神様の御業に感謝し、神様を褒め称える時になったと伺った。
それぞれの家族が教会生活を送るようになるには時間がかかることだろう。しかし、大切な人が召されるつらい時期に寄り添ってくれた牧師との絆は簡単に失われることはない。
絆は、牧師とだけつながっているわけではなく、教会との絆であり、主との絆であることを信じたい。その絆がやがて家族親族に広がっていくことを祈り続けていくことは大切なことである。
日本には、教会に集っていない信仰者が数多くいる。さらに、幼いころに教会学校に通った人やミッションスクールなどを通して聖書の言葉に触れた人が大勢いる。彼らが人生のつらい時、悲しい時に、牧師や志のある信徒につながることには、大きな意味がある。
主は、寄り添う牧師(信者)を通し、多くの日本人をキリストの体である教会に招いてくださるに違いない。主に信頼して一人の人に寄り添うことが、日本人全体を救うことになると信じていきたい。
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