日本では、キリスト教の信者でなくても「天国」という言葉をよく使う。一般的に葬儀は告別式といわれるようになったが、故人が天国に旅立つ「お別れの式」だと考えている人が多い。
そもそも、釈迦が説いた本来の仏教には、信仰の対象や死んだ後の世界に関わるものは含まれていなかったが、紀元1世紀以降に大きな変化があり、さまざまな仏(如来)が生み出され、信仰の対象や死後の世界が加えられてきた。
仏(如来)には、「永遠の真理から来た尊い方」という意味があり、イエス・キリスト自身を指しているようにも思う。信仰の対象として仏教に加えられた時代は、キリストの十字架と復活以降、キリスト教が東方の世界に初めて伝えられた時代と重なり、関係がないとは到底思えない。
また、聖書の「天国」を模倣したかのような「極楽」の表現も、この時代から仏教に現れてきた。聖書の中で「天国」は、実体を伴って生き生きと表現されているが、それに比べると、「極楽」は、観念的で掴みどころがないように思う。
現代の日本では、仏教に触れる習慣が少なくなり、むしろ聖書にある本来の「天国」の方が親しく用いられるようになったのだろう。
それでは、この「天国」や「極楽」に入るための条件は何だろう、ということになると、さまざまな宗教、宗派が生まれる要因になっている。
キリスト教の異端と呼ばれる宗派では、天国に入るために、本来聖書にはないさまざまな条件を付け加えて教義としていることが多く、聖書のみを信仰の土台に置いているかどうかで判別がつく。
しかし、仏教に関してはどうだろうか。日本にあるすべての仏教は、本来釈迦の説いたものとは異なり、それぞれの宗派が、後の時代に教義を作り出してきているように見える。そもそも「極楽」自体が釈迦の時代になかったのだから、極楽に入る条件が違ったところで問題が生じないのかもしれない。
もちろんすべてが、人の宗教心が生み出した産物なので、それぞれに意味があり、価値があると思うが、信仰が最も必要になる人の終末(死)に際し、実体のない仏教の教義がどれほどの力になるのか疑問である。実際、僧侶が生前に寄り添って「極楽」を指し示すのは難しいだろう。
私たちは、全国から寄せられる葬儀の事前相談に際し、生前から訪問させていただけるよう依頼者にお願いをする。連携者の少ない地域からの依頼であっても、迷うことなくそのようにする。
キリスト教の牧師は、死んだ後ではなく、生きているときに助けてくれると多くの日本人が受け止めているので、訪問が可能になる。
面識のない牧師に訪問を依頼するのは、勇気の要ることだが、多くの場合、大変良い結果を生む。訪問を重ねるごとに、召される方が「天国」の希望を持つようになり、やがて、家族や友人から慰めと励ましを受けたといううれしい知らせが届けられる。
もちろん、牧師によって訪問のスタイルや状況は異なるが、聖書信仰を持つ牧師であれば、創造主である神様を信頼してお任せできるのはありがたい。
なぜなら、聖書信仰を土台とする地域教会の牧師であれば、弱さを抱え、終末(死)を目前にした人々に、内住のキリストに従って「天国」を指し示すことができるはずだからである。牧師はそのために召されているといっても過言ではない。
聖書が示す通り、イエス・キリストが終末(死)を迎える人々の弱さを負い、生前のすべての咎を背負って十字架にかかり、墓に葬られ、これらの暗闇に打ち勝って3日目によみがえったのは、作り話ではなく歴史の事実である。
そして、そのことを受け入れ、聖霊によって導かれ、献身の道を歩んでこられた牧師先生ならではのドラマが、毎日のように各地で展開されるのである。
日本では毎日4千人近い方々が亡くなっている。天国を指し示す牧師が、終末(死)を迎えるこれらの人々に寄り添う時代が、既に来ようとしている。
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