クリスマスの時期になると、教会はさまざまな子ども向けのイベントで忙しくなる。若い頃から幼児、児童伝道の奉仕を続けてきた私には、子どもたちと交わった懐かしい思い出がたくさんある。子どもたちの純粋な信仰は、いつも私の信仰生活の模範になってきた。
もう30年ほど前になるが、3歳になる娘を入園させる良い保育所を熱心に探したが、思い余って自宅を無認可保育所にしてしまったことがあった。小さな一軒家であったが、子どもたちに良い環境を備えたい一心であった。私は忙しい会社勤めがあったので、普段は保母さんと私の妻が子どもたちを保育し、週に1度だけ、私が会社のフレックス制度を利用して、礼拝の時間を導いていた。
あまり例のない3歳児の1年だけの小規模保育園で、良い保育環境を目指したこともあり、数年後には12人の定員がいっぱいになり、入園をお断りしなければならないこともあった。残念ながら、家庭の事情で10年間だけの働きで終わったが、多くの未信者家庭の子どもたちが信仰を得て卒園していったことは感謝なことだった。
幼子が普段の生活の場でいとも簡単に信仰を持ち、神様の恵みを体験していくさまに、いつも感動を覚えていた。信仰を持つことは特殊なことではなく、人にとって自然なことであることを、この期間を通して教えてもらったように思う。
忙しい会社生活、子育て、教会生活の時が過ぎ去り、60歳を過ぎた昨年、結婚した娘が出産し、私にも待望の初孫が与えられた。すぐ近くに住んでいることもあり、毎日顔を合わせている。この初孫がどのように成長し、信仰を育んでいくのか実に楽しみなところである。
幸いにも、この1歳になった孫と2人だけで過ごす時が毎日与えられているので、賛美歌を歌ったり、絵本を読んだり、祈ったり、いろいろなことを試している。かつて保育園で経験したように、普段の生活の中で自然に信仰を得てほしいと願う毎日である。手を合わせて祈りの姿勢をまねたり、また「アーアン」(アーメン)と言ってみたりする様子はとても愛らしいが、ある時、孫がそばにいることをあまり意識せずに、声に出して祈っていると、じっと私の顔を見ているのに気が付いた。
幼子にとっては理解できない私の祈りの言葉ではあるが、心を神様に向けて祈る私の様子をじっと見つめているのである。いったい何を感じているのだろうと思っていたら、先日同じような孫の表情を、別の機会に見つけた。それは、孫の相手をしているときに携帯電話が鳴った直後だった。私が電話機を持って話している間、私が祈っているときと同じ表情をして私をじっと見ているのである。
目には見えないが、誰かと大切な話をしていることを、この幼子は理解しているようである。電話の相手を知る必要はないが、私が祈りを向ける神様に心を向けているとしたらうれしいことだ。
祈りは、人に見せるものではない。しかし、寄り添ってくれる人が、心からそばで祈るなら、祈りを向ける先におられる神様に、いつか共に触れることになるに違いない。良い関係を持ちながら、心を注ぎ出して祈るなら、いつか祈りを合わせてくれるだろう。
現在、私は高齢者に寄り添うことが多くなったが、幼子と高齢者は、弱さを身にまとっているという共通点がある。彼らは自分で教会に来ることも、聖書を読むことも難しい。しかし、彼らの弱さに寄り添って、心を注ぎだして祈るとき、聖書の言葉は祈りの言葉となって、彼らの心の深みに伝わっていくのだろう。
私たちは、幼子や高齢者、その他、弱さを抱える多くの人々のもとに遣わされ、彼らとともに天の神様に祈る時を持たせていただきたいものである。神様は天来の祝福を、私たちが寄り添う一人一人にも、豊かに注いでくださるに違いない。彼らとともに、天の栄光を拝するものとさせていただこうと思う。
「わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」(Ⅱコリント12章9節)
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