日本のクリスチャンは、人口比率1パーセントと極めて少数派である。当然、代々聖書信仰を受け継いできたような家族は非常に少ない。通常、クリスチャンは多くの未信者に取り囲まれて生活しているのである。
一方、日本の大半を占める未信者によって培われた習慣や文化は、現代社会では不合理なものも多いが、少しずつ形を変えながら長年受け継がれてきているものがある。
日本における仏教葬儀文化では、葬儀の後に、故人との関係をつなぐ「法事」の場が受け継がれている。「法事」の意味を正確に把握している人は減ってきているが、「法事」は、故人を思い起こし、家族の絆を培う大切な場であることに変わりはない。
遺族にとって、今まで生きている間は、たとえ病に侵されたとしても、触れることのできる関係であったが、「死」を境に故人となってしまった大切な人との関係を、家族の絆の中に見いだそうとするのが「法事」や「墓参り」の場である。
そのような日本の家族の中で、突然キリスト教葬儀がもたれると、頻繁に行われる「法事」になじんでいる未信者の遺族に戸惑いを与えることになる。遺族に神様の愛が伝わり、聖書の伝える死生観が根付くには時間を要するため、きめ細かい対応が求められる。
教会はそのような遺族に対し、どのようなアプローチをしてきたのだろうか。直接遺族から対応を求められたのならともかく、習慣化していない対応を未信者の遺族に申し出るのは難しい現実がある。教会で催す合同記念会への出席を勧めても参加される遺族は少ないだろう。
半年ほど前のことだが、海外にお住まいのクリスチャンの女性より葬儀司式の依頼が入った。ご両親は日本で暮らしておられたが、お母様が病床で信仰を告白されて召されたとのことだった。
故人も連絡をくださった娘様も信仰を持っておられたので、一般的な流れでキリスト教葬儀の司式をさせていただいた。ところが、そのご家族は、長年仏教文化を受け継ぎ、ご自宅には立派な仏壇が備えてあることが分かった。
喪主である未信者のお父様は、遺骨を持ち帰り、仏壇の前ではなく、仏壇の隣に安置したが、故人となってしまった奥様との新しい関係を築けない不安を抱いておられた。
仏教では、葬儀の後、7日目ごとに「法事」の習慣があり、49日目には親族が集まる大切な時になる。ほとんどの仏教宗派には「追善供養」という目的があるため、故人のために招かれる僧侶の読経にも心を合わせる気持ちになる。
しかしながら、キリスト教には頻繁な「法事」の習慣も「追善供養」の目的もない。未信者のお父様が、奥様の遺骨を前にして、心を向ける先が見いだせず、戸惑うのも当然だろう。
信仰を持っておられる娘様は海外にお住まいということもあり、寄り添う人材が必要と判断した私たちは、早速、適任者を選んでお父様を定期的に訪問するようにさせていただいた。
お父様の心が、奥様を天国に導いてくださった神様に向かうには時間がかかるかもしれない。しかし、仏壇の隣に置かれた奥様の遺骨を前にして、心を天に向ける時を共に持たせていただいている。
良い時間を重ねるごとに、故人にだけ向けられていた思いが、故人を愛して天国に導いてくださった神様に向けられてきている。神様の大きな愛がやがてお父様の心をとらえる時が来るだろう。天国で奥様と再会する希望を持っていただきたいものである。
私たちの短い経験の中ではあるが、葬儀前後に寄り添わせていただいた方のほとんどが信仰に導かれてきた。「死」という悲しみに寄り添うことが、慰めに満ちた神様をお伝えする良い機会となり、天国の希望が信仰を育んでいく。
キリスト教葬儀は日本宣教の入り口にすぎない。葬儀を通して弱さの中におられる方に継続的に寄り添うことが、宣教の現場を生むことになる。
教会には、イエス様の歩みに従う多くの人材が神様によって備えられている。彼らとともに、「死」に向き合う人々に寄り添い、日本の津々浦々まで福音を伝えさせていただきたいものである。
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