祈り心を表現することの苦手な日本人の家庭に、聖書信仰に基づく祈りの場を備えたいと願い、新しい冠婚葬祭の形を幾つか提案することから私たちの働きは始まった。当初の宣教の志は今も変わっていない。
しかし、その後、思いがけずキリスト教葬儀の依頼が、教会外から頻繁に入るようになり、全国の牧師先生に協力を仰ぎながら、何とか対応できる体制を整えてきた。未信者の依頼するキリスト教葬儀から宣教の扉が開いていった。
先日も未信者のご家族から、お母様が間もなく召されるとの連絡が入った。既に葬儀社は準備され、キリスト教葬儀の司式牧師派遣の相談だった。
大切な家族が重篤な状態に陥り、死の淵を通るような様子を目の当たりにするなら、できる限りどんな願いでも叶(かな)えてあげたいと思うのも当然だろう。
癌(がん)の末期で意識がはっきりしなくなってきたお母様が、ご自身の葬儀をキリスト教葬儀にすることを望まれていた。キリスト教との接点は、若い時代にミッションスクールに通われていたというだけであった。
牧師に伝手(つて)のないご家族だったが、ミッションスクール時代からのクリスチャンの友人に勧められて当社に連絡をくださったようだ。このような友人の存在は貴重である。
キリスト教葬儀を準備したいという未信者からの願いは、必ずしも葬儀相談だけではない。誰にも相談できない不安を抱えておられることが多い。
私は、祈りつつ生前に訪問させていただきたい旨をご家族に伝え、了解をとることができた。早速、依頼をいただいた方の近隣の連携牧師の中から、この働きにふさわしい牧師を選ばせていただき、緊急の連絡を差し上げた。
お母様はもう意識がはっきりとしないということだったが、私は洗礼の準備をして訪問いただけるようにお願いをした。
関西であれば自分で足を運ぶところだが、遠方の場合は、信頼できる牧師に無理なお願いをさせていただくことになる。この時も突然のお願いをしたわけだが、状況を即座に理解してくださり、早速、病室を訪問していただくことができた。
ご家族のつらい場面に面識のない牧師がいきなり入っていくのだから、大変勇気の要ることである。しかし、ご家族が生前の訪問を受け入れてくださるということは、ご家族の中に神様の救いを求める魂の飢え渇きがあるに違いない。
訪問してくださった牧師も、失われた魂を探し求めるキリストの使節としてご家族に接してくださったのだろう。神様の臨在のもと、お母様を囲んで親しみのある交わりと信仰の導きがなされ、お母様は病床洗礼を受けることができた。
短い時間の中では、洗礼の意味をしっかりと理解できなかったかもしれない。しかし、神様は確かにご家族の手をしっかりと握って救いに導いてくださった。神様の恵みの御業は、点と点をつなぐように見事に届けられたのだ。
感動的な神様との出会いからわずか5日後、お母様は天に召されていかれた。葬儀は、洗礼を授けた牧師によって執り行われた。通常は、仏式葬儀ばかり行われる葬儀会館に賛美歌が流れ、神様の恵みが溢れた。
私は、遠い関西よりサポート役に徹し、葬儀の時間は祈りを積むばかりだった。葬儀の後、司式してくださった牧師より、まだ余韻の残る声で電話が入った。
キリストの使節としてご家族の悲しみに寄り添い、大切な時間を共に過ごされた牧師だからこそ、天来の祝福を共に体験されたのだろう。電話を通して、同じ祝福の恵みが遠い地で祈っていた私のもとにも届けられた。
日本では毎日4千人近い方が命を落としている。私たちのすぐそばで、飢え乾いた魂が寄り添ってくれる神の器を求めているに違いない。
あらゆる手段を用いて、彼らの声に耳を傾け、死の淵を前にした不安のただ中に、まことの神様の慰めと救いを届けさせていただきたいものである。私たちは、選ばれたキリストの使節であることをいつも自覚していたいものである。
「神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばを私たちにゆだねられたのです。こういうわけで、私たちはキリストの使節なのです」(Ⅱコリント5:19、20)
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