先月、地下鉄サリンなど一連のオウム真理教事件に関与して殺人罪などに問われ、死刑が確定していた教団元幹部の死刑囚13人全員の死刑が執行された。死刑制度の在り方が議論されている中での出来事だっただけに、国内外でさまざまな議論が飛び交っている。
最も残念なことは、なぜ多くの優秀な若者がこのようなカルト集団で洗脳され、事件を起こすことになったのか。事件から20年以上が過ぎたが、いまだに納得できる回答が得られていない。
処刑された死刑囚の多くが、既にマインドコントロールから解放されているにもかかわらず、自分がこのような恐ろしい事件に関わるようになった経緯を理解できていなかった。彼ら自身が過ちを正しく分析することが、今後のカルト集団への備えになるはずだったが、その機会を失ってしまったのかもしれない。
カルト集団に魅力を感じて洗脳されていく若者の多くは、オウム真理教に限らず、幼い頃から洗脳されていたわけではない。普通の日本人として育ち、ある時期にカルト集団に出会って、突然変貌していく者がほとんどである。
いったいなぜ、将来有望な若者たちがカルト集団のとりこになってしまったのだろう。私は、この分野の専門家ではないが、自らの体験から考えてみた。
私がキリスト教会を訪れたのは27歳の時だった。親族にも友人にもクリスチャンはいなかった。一般的な日本人の家庭に育ち、企業で働くエンジニアとなり、論理的思考の大切さを痛感し、証明できないものに頼ることなどあり得ないいわゆる「宗教嫌い」の人間だった。
ところが20代の後半、私の心に大きな不安が増してきた。卒業、就職、結婚までは、何とか乗り切ったつもりだったが、子どもが生まれ、仕事でも責任が多くなる中、それまで以上に「自己研さん」の必要を強く感じるようになっていた。もっとレベルの高い人間にならねばならないという焦りがあったのだろう。
将来に対する漠然とした不安は、それまで考えもしなかった「宗教」に心を向ける機会となっていった。もちろん「宗教」も「自己研さん」のツールのようにしか考えていなかったので、「宗教嫌い」ではあったが、さまざまな「宗教」を学べば、より社会に役立つタフな人間になれるかもしれないと思ったのだ。
そこで私は、最初にキリスト教会の扉をたたいたが、特に教会を選んだ理由があったわけではない。むしろ仏教の方に親しみを感じていたように思う。妻が近くにある教会に行きたいと言ったので一緒に出掛けただけのことだった。
教会の印象は考えていたものとはかけ離れていた。キング牧師やマザー・テレサの力強さを期待していたにもかかわらず、教会にいる人々は、ただ祈っているばかりで弱い人たちに思えたからである。
結局、しばらく聖書を読み教会に通ったが、キリスト教は私の考えていた「宗教」ではなく、「自己研さん」のツールになるようなものは見つけられなかった。
私は、1年ほどして洗礼を受けたが、キリスト教を材料とした「自己研さん」の誘惑から解放されるには、それから10年ほどを要したように思う。神様は少しずつ私の弱さを教えてくださり、気付けば弱さの中で祈る人間に変えられていった。
もし、私がカルト集団の扉をたたいていたなら、おそらく何か魅力的に見える「自己研さん」のツールを与えられ、次第にとりこになっていった可能性がある。私にとっては危険な時期であったが、教会に導かれたことは本当にありがたいことだった。
私が聖書を通して得たものは、「宗教」でも「自己研さん」のツールでもなく、「信仰」だった。「信仰」とは、子が父を無邪気に慕うように、また、親友と語るように、親しく創造主である神様と個人的に交わることである。
子どものように素直に神様に信頼して、共に歩むことこそ、実はクリスチャンの力強い人生の秘訣と言えるだろう。今では、私の誇りはこの「信仰」に尽きるが、多くの日本人が「宗教嫌い」を理由に「信仰」に出会えていないのは残念なことだ。
「宗教嫌い」であるが、実は「信仰」を求めている日本の多くの人たちが、カルト集団に染まることなく、聖書の言葉に触れ、正しい「信仰」を知ることができるよう心より願っている。
あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。(ヨハネの福音書8章32節)
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