この世界は、神様の恵みが満ち溢れているが、その恵みを受け取るため、神様は人に「信仰」という賜物を与えてくださった。聖書には、「人は信仰によって救われる」と一貫して記されている。「信仰」は、人が人生の中で受け取るべき、祝福の扉のようなものだ。
しかし、「信仰によって救われる」という言葉自体は、結構取り扱いが難しい。なぜなら、「信じる(信仰を持つ)」とは何か?については、人によって微妙に言葉の捉え方が違うからである。
例えば、一般的によく「占いを信じるか?」と問われると、クリスチャンなら、「占いの背後に存在する悪い霊を信頼するか?」という意味と考え、即座に「NO!」と答えるかもしれない。
しかし、聖書に触れたことのない人なら、「占いが将来を言い当てることがあるだろうか?」というような質問に置き換えるかもしれない。占いの背後には、霊の世界の見えない力があるので、答えは「Yes」が多くなるだろう。もちろん占いは、人生を狂わしてしまう危険があるので気を付けなくてはいけない。
「神を信じる」という人はたくさんいる。私は物理化学の領域に多少触れてきたが、この自然界の背後には、大きな力の源を感じずにはいられない不思議さがある。それを神と表現するなら、神の存在を信じる方が自然である。自然を対象に研究する科学者ならなおさらである。
しかし、それは聖書が勧める「信じる(信仰を持つ)」ことと同じではない。神の存在を信じていても、「神を信じる」ことにはならない。天地を造られた神様はあまりに大きく、その偉大さの前では、人間はただ畏れを持つだけなのだろう。畏れは信仰を持つ上で大切なことだが、信仰と同義ではない。
同じように「イエス・キリストを信じる」という人がいても、その人が聖書の伝える基準で信じているかは、簡単に分からない。「信じる」という言葉の使い方が人によって異なるからだ。
先日、「エホバの証人」の方たちが我が家を訪ねてきた。彼らも「イエス・キリストを信じる」と言う。しかし、彼らの多くは、聖書知識こそ多いが、聖書の勧める信仰からは随分と遠い人たちである。彼らの信じているのは、所属している団体とその教理(聖書解釈)であって、イエス・キリストではない。
実は、洗礼を受けてキリスト教会に所属している人でも、信じていない人は結構たくさんいるのだろう。牧師でも信じていない人がいるという。信じるというのは、簡単なようで難しいのかもしれない。
一方で、私には間もなく2歳になる幼い孫がいる。良き両親に恵まれ、愛情を一身に受けて元気に育っている。言うまでもなく、彼にとって両親は信頼できる、とても大きな存在である。
幼子に向ける親の愛情は、私たちの体験できる範囲で、神様の愛に最も近いといわれるが、幼子が両親を信頼している様子も、私たちにとって「信仰」の良いモデルになる。
もちろん幼子に聖書知識があるわけではない。しかし、幼さのゆえに、その弱さを通して神様を信じているのだろう。無条件に母親の胸に飛び込むように、キリストを受け入れる素直さを持っている。イエス・キリスト自身が幼子を指して、「神の国はこのような者たちのものです」と言われた通りである。
そして、この幼子のような弱さにもう一度戻っていくのが、誰もが迎える人生のエンディングなのだろう。体の機能が衰えて弱くなるにつれ、祈り心は増してくる。最期は祈ることしかできなくなる。
残念なことに、最期まで頑なな心を持っている人もいるが、弱さの中で、キリストを素直に受け入れていかれる方も多い。死を目前にしている方とともに、天国を仰ぎ見て心を合わせると、寂しさの中にも天国が舞い降りてくるような時が流れる。
私たちは誰であっても、やがてこの世の生涯を終える。弱さの極みで「死」を迎えようとするとき、幼子のようになって神様への信仰を表現したいものだ。
「信仰によって救われる」と伝える聖書の言葉通り、私たちが天国に凱旋するとき、残されたいとおしい人々も、共に天国の前味を知り、大きな祝福を受け継ぐことになるだろう。
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