終活事情の変化
終活という言葉は、2009年ごろに週刊誌で初めて使われた新しい用語で、まだ10年もたっていない。しかし、高齢化が急速に進む中、世間一般に急速に広まり、今では日常的に使われるようになった。
通常、終活の内容は、介護、医療、老後の生活費、資産、遺産相続、葬儀、墓地などの心配を回避するため、それぞれの専門家によるアドバイスが中心になっている。大事なことばかりだが、真面目に対応していくと、途方もなく中身が多く、終活に追われることになる。
最近は、いわゆる「終活疲れ」になる人も多いらしい。次第に終活が、残される家族が困らないようにする準備から、自身に残された時間を有意義なものにする取り組みに変化しているのも分かるような気がする。
教会向けの終活が未信者に好評
私たちは日本宣教をサポートする役割を担っているが、信者への終活は宣教の基本姿勢に通じるため、教会に向けて終活セミナーを行うようになった。大変歓迎していただけるので今後も続けていくつもりでいる。
ところが、教会の信者向けに用意した終活セミナーを未信者に向けて行うと、非常に良い反応が返ってくるのに驚くことがある。もちろん、宣教という言葉ではなく、「キリスト教の死生観が、残された者に感謝と希望を与える」といった言葉にしているのだが、珍しさもあり好評を得ている。
確かにキリスト教の死生観は、多死社会を迎えた日本では、唯一の希望なのかもしれない。残された時間を有意義に過ごすためには、人生の最期に残された「死」に対して有効な解決がどうしても必要になるからだ。
キリスト教の死生観の根拠になる福音によれば、「死」は終わりではなく、その先に大きな希望がある。それは、信者にとっては当然のことだが、一般社会の、特に「終活疲れ」に陥っている人にとっては、新鮮に映るのだろう。
「孤独死」の恐怖
「死」に向き合う現代社会の抱える課題の中に「孤独死」の恐怖がある。多くの人が「死」は避けられないが、「孤独死」は避けたいと思っている。しかし、考えてみれば、一人暮らしが多くなっているのだから、いつ訪れるか分からない「死」を一人で迎えるのは、特別変わったことではない。むしろ、普通に起こることなのである。誰もが「孤独死」を迎える確率が高いと思った方がいい。
確かに、愛する者たちに看取られる「死」の方がいいと思う。しかし、たとえ、多くの人に囲まれていても、死んでいくのは一人である。どんなに愛し合っていても一緒に死ぬことはない。「孤独死」の恐怖は、実は、「死」の向こうに希望がないことに対峙した結果として、あらためて認識されてきたのだろう。
死んだ後、愛する者と出会う喜び
現代社会が抱える「孤独死」の恐怖に対する解決は、死んだ後の世界にある「愛する者との出会い」である。聖書が伝える福音は、それが現実に起こることを保証している。かつてこの世におられた素敵な方や懐かしい方、そして何よりも救い主キリストに出会う希望こそが、「孤独死」の恐怖を一掃してくれるはずである。
先日、神戸の映画館でアンドリュー・ハイアット監督による「パウロ 愛と赦しの物語」を観てきた。西暦65年ごろの史実に基づく大変いい映画だったと思う。中でも、ローマ帝国による厳しいキリスト教徒迫害の中、彼らの希望は、「死」の先にある永遠の世界だったことには納得できるものがあった。キリストの足跡に従ったパウロ自身がそのことを示す役割を担ったことは、彼の書簡の中に示されている。
私たちの人生もそのようでありたいと思う。そして、たとえ人生の終わりが「孤独死」であったとしても、多くの先人たちのように、永遠の世界に生きる者として、天来の希望を持って輝いた人生を最期まで送りたいものである。それこそが、本人にとっても、また残される者にとっても、最善の終活になるだろう。
こういうわけで、いつまでも残るのは信仰と希望と愛、これら三つです。その中で一番すぐれているのは愛です。(1コリント13章13節)
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