高齢化社会を迎え、病院や介護施設はどこも高齢者で込み合っている。少しでも健康に生活したいと誰もが願い、さまざまな医療、看護、介護の仕組みがそのニーズに応えている。
確かに、社会保障制度が充実し、寿命が延びることはいいことだ。しかし、人は体だけで生きているわけではない。霊と魂が健康であることが、実は、体の健康よりもはるかに大切なことなのである。残念なことだが、今の日本では、霊や魂の健康管理にはあまり手が届いていない。
体が衰え、死を迎えようとするとき、人の霊や魂がどうなるのか、またその霊や魂が、肉体の死を乗り越えて、健康であり続けることがあるのか、あるのならどのようにしてそれらを得ることができるのか、人間にとってはとても大切な問題である。
聖書の言葉を信じるキリスト者は、それらに対して一定の答えを持っている。少なくとも、内住のキリストに頼るなら、誰もが「死の暗闇」の中にも、霊と魂の健康を得ることができるはずだ。
先日、仲の良かったご夫妻が相次いで亡くなり、葬儀式に対応した。先に召された奥様の葬儀の際、残されたご主人は大変弱っておられた。体調を崩されているとのことだったが、最愛の伴侶に先立たれ、寂しさが満ちているようだった。
聖書に親しんだキリスト者であっても、親しい家族の「死」は大きな試練の時になる。まして、そのご主人は信者ではなかった。棺の中で冷たくなった奥様をじっと見つめ、感謝の言葉を掛ける姿は痛々しく、涙を誘うものだった。
召された奥様は、若い頃に洗礼を受けておられた。私は、神様が天国に召してくださったことを信じて、葬儀の司式を執り行った。
残されたご主人には、天国での再会を期待して、奥様との絆を深めていただきたいとお伝えしたが、そのメッセージを心に留めてくださったようだ。奥様の葬儀から召されるまでの1カ月半、体調がさらに悪化する中で、天国の希望を握っていてくださった。
ご主人の葬儀の際、仲の良かったご夫妻の写真が並んで祭壇に飾られていた。地域社会で活躍され、多くの方との親交があったご夫妻を惜しむ声がたくさん寄せられた。
神と人に愛されたご夫妻の生涯に感謝し、永遠の神が、永遠の愛をもって支え、祝福し、今も、これからも永遠に共にいてくださることを、葬儀説教を通してお伝えさせていただいた。
人が老いていくこと、肉体の死に定められているのは、人が神様から離れた故である。神様から離れていることを聖書では「罪」というが、神様を意識できなくなるほど、遠く離れてしまった人は、皆「罪人」として生まれ、罪を犯し、「死」に至る。
しかし、肉体が弱まり、「死」を迎えようとするとき、人は、その弱さのただ中で再び永遠の世界に心を向けるようになる。神様は人に弱さを与えることで、永遠の扉を開いてくださっているように思う。
棺の中に横たわる遺体は、何も語らない。それまでは明るく応答してくれていた存在が、冷たく遠い存在になってしまう。実につらいことである。葬儀の場は、愛する者に別れを告げる悲しい告別の場であるには違いない。
しかし、その冷たくなった遺体や、遺骨を通して伝わってくるものがある。「死」の陰から確かな声が聞こえてくる。それは、永遠の神様は今も生きておられ、私たちを、そして故人を深く愛しておられる。そして、永遠の住まい(天国)を備えてくださっていることを悟らせる。
天国は、人が作り上げた想像の産物ではない。神様がイエス・キリストの十字架と復活という確かな保証をもってこの世に示した、私たちの本当の永住の地なのである。
やがて、私たちは神様の愛で満たされた天国で、愛する者たちと再会することができる。そのことを期待し、永遠の神様の愛の中を輝いて生きることこそ、私たちの霊と魂が健康にされる秘訣なのだろう。
また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」(ヨハネの黙示録21章1~3節)
◇