かつて私が初めて教会を訪ねた頃、教会の皆さんがよく話される「救いの証し」に疑問を抱いていた。生活に困っていたわけでも、病気だったわけでもないのに「救われた!」というのは一体何のことなのか、よく分からなかった記憶がある。
聖書の中に出てくる「救い」は幅の広い意味を持つが、通常、クリスチャンが「救われた」と言うときは、一般によく使う意味ではなく、「魂の救い」のことを指している。
つまり、天地を造られた神様から、それまで自分勝手な人生を送ってきた罪を赦(ゆる)していただき、罪が招く「死」から解放され、「永遠のいのち」を得ることを示している。
「罪の赦し」や「永遠のいのち」は、人にとって実に大切なものだが、人の力では到底得ることができない。しかし、イエス・キリストの贖罪は既に完了している歴史上の事実なので、「罪の赦し」や「永遠のいのち」は信じたときに瞬時に与えられる神様からの賜物なのである。聖書は、そのことを繰り返し教えている。
クリスチャンにとっては、「信じたとき」がすなわち「救われたとき」となり、信じるに至った経緯が「救いの証し」になる。感動的な話が数多くあるのも当然だろう。
一体いつ信じたのか分からない
しかし、多くのクリスチャンが、自分がいつ救われたか分からないと感じているのも事実である。特に、幼い頃から聖書に親しんでいると、感動的な救いの体験がないという人も多い。
私のように30歳近くになって、初めて聖書に触れたような人間でも、信じて救われたときがいつだったのか、はっきりしていない。瞬時に救われたはずだが、聖書や信仰書を読みながら、数カ月かけて信じていったような気がする。
「救い」は一瞬で与えられる賜物だが、それを受ける人の側では、受け取っているかどうかが分からない時期が確かに存在するのである。
「信者」と「未信者」の区別がつくのか?
また、長年聖書に親しみ、祈っているにもかかわらず、信仰を持っていないと告白する人がいる。逆に、すぐに信仰を告白して洗礼を受けたものの、本当は信じていない人もいるように思う。人が発信する情報は、それぞれ固有の事情があり、正しくないことも多い。
教会に集っていると、「救いの証し」を語ることが多いので、信仰を持った経緯を整理して記憶していることもできるが、教会に集っていない人の場合、それらの情報が整理されていないことが多く、本人や家族の話を聞いただけでは、その人が「信者」か「未信者」か、判別できないことが多い。
教会に集っていなかった故人のキリスト教葬儀
まして、教会外から葬儀を頼まれる場合、短い時間の中で得られる情報だけでは、故人の信仰の有無を確かめることは非常に難しい。キリスト教葬儀を希望される理由はそれぞれであるが、故人が救われていたかどうかはほとんど分からない。
私は、葬儀メッセージを準備する際、故人が「信者」と判断される場合、信仰によって得られる「罪の赦し」や「永遠のいのち」に触れ、「未信者」の場合は、信仰とは関係なくすべての人に与えられる恩恵(一般恩恵)に基づいて語るつもりだった。
しかし、故人が「信者」か「未信者」か分からない以上、すべての葬儀において、故人が「救い」にあずかり、天国に行ったことを前提に語ることは難しいと考えるようになった。
イエス・キリストが故人にどう寄り添ったかを伝えたい
それと同時に、得られる情報がいかに少なくても、故人の人生にイエス・キリストがどのように寄り添っておられたかを語らずにはおられない。
昨年のことだが、真言宗の檀家の家庭に育った女性の葬儀を依頼された。故人は、召される直前にキリスト教葬儀を希望されたため、家族がネット検索で当社を見付け、連絡を下さった。
故人のキリスト教との出会いは、幼い頃に集った教会学校とのことだった。家族の中にその当時のことを知る者はなく、それ以上の情報は何も得られなかった。
私は葬儀メッセージの中で、故人の心に届いていたに違いない聖書の言葉を遺族に紹介することにした。教会学校の教材としてよく使われるイエス・キリストのたとえ話(下記)である。
人の子は、失われている者を救うために来たのです。あなたがたはどう思いますか。もし、だれかが百匹の羊を持っていて、そのうちの一匹が迷い出たとしたら、その人は九十九匹を山に残して、迷った一匹を捜しに出かけないでしょうか。そして、もし、いたとなれば、まことに、あなたがたに告げます。その人は迷わなかった九十九匹の羊以上にこの一匹を喜ぶのです。(マタイの福音書18章11~13節)
召される直前にキリスト教葬儀を希望された故人だが、信仰を得て救われたかどうかは分からない。しかしこのたとえ話のように、イエス・キリストは長い人生のすべての局面で、故人を愛して命懸けで探しておられたに違いない。
私は、異教文化の中で生きた一人の女性に寄り添ってくださったイエス・キリストの御心を想い描きながら、葬儀メッセージを語らせていただいた。もちろん、故人が救われて天国に行ったことを前提に話をしたわけではない。
しかし、故人を命懸けで愛し、寄り添ってくださった主の思いを伝え、「罪の赦し」と「永遠のいのち」を得て天国に凱旋したことを期待する葬儀とさせていただいた。遺族にとって、天国を想い描く慰めに満ちたときになったことだろう。
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