朽ちない身体として
キリスト教会の礼拝では、信仰告白として使徒信条を唱える習慣がある。この使徒信条の最後に、「・・・聖徒の交わり、罪の赦(ゆる)し、身体(からだ)のよみがえり、永遠(とこしえ)の生命(いのち)を信ず」という言葉がある。
聖書によれば、イエス・キリストを信じる者には「罪の赦し」と「永遠の生命」の保証が即座に与えられ、聖霊の助けによってそれらを実感することもできる。また、教会に集い、「聖徒の交わり」の素晴らしさも体験できる。
しかし、「身体のよみがえり」についての約束は後の時代に起こる出来事であり、すぐに体験できるものではない。2千年前にイエス・キリストが墓からよみがえったことを通し、聖書が後の時代に起こることとして保証しているのである。
聖書が約束するこの「身体のよみがえり」は、単なる蘇生ではない。蘇生した身体はいずれまた朽ちていくが、イエス・キリストは、二度と死ぬことのない朽ちない身体(天国の身体)としてよみがえったのである。
このようなイエス・キリストの「身体のよみがえり」は、いまだ彼以外の誰も経験していないので、聖書では、彼を「眠った者の初穂」と表現している。
今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。(1コリント15:20)
天国の身体とは
よみがえったイエス・キリストの身体は、弟子たちが触れることのできるものだったが、同時に、壁や扉をすり抜けて移動できる不思議なものだった。また、十字架にかけられた傷が残り、明らかにイエス・キリストと確認できる身体ではあったが、それらの傷は、彼に何の悪い影響も与えていなかった。
後にパウロが1コリント15章42~44節で「御霊のからだ」という表現を用いて、後の時代に起こる「身体のよみがえり」における「からだ」の特徴を説明している。
朽ちるもので蒔(ま)かれ、朽ちないものによみがえらされ、卑しいもので蒔かれ、栄光あるものによみがえらされ、弱いもので蒔かれ、強いものによみがえらされ、血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです。(1コリント15:42~44)
葬儀の場における希望
葬儀の場は、愛する者との別れの場であり、悲しみが深く覆っている。棺の中には、もう冷たくなった故人の遺体が納められている。通常、葬儀式の最後は火葬場への出棺になるが、遺族の多くは、もう応答しなくなった故人の遺体に手を差し伸べ、話し掛け、別れを惜しむ。
実に悲しい場面だが、遺族の皆さんには別れの時間を十分に取っていただくようにしている。故人との新しい関係を築くためには、応答しなくなった故人の「死」を受け入れる大切な時間になるからである。
やがて出棺時間となり、棺にふたを閉める際、私はいつも「身体のよみがえり」を期待する短いメッセージと共に祈りをささげる。「身体の死」という厳しい現実を前にするからこそ、復活の希望に慰めを得ることができる。
尊い犠牲が伴う保証
一般的な日本人は、「死んだら天国に行く」と何となく考えているが、天国における「身体のよみがえり」について、あまり意識していない。
しかし、高齢化が進み、身体が衰え、やがて「死」を迎える不安を長期にわたって抱えねばならない現代社会において、葬儀の場における「身体のよみがえり」のメッセージは、心に強く響いてくる。
葬儀の後、火葬、収骨、納骨、記念会など、故人の「身体の死」を心に刻む時間が続く。それらの機会を利用し、イエス・キリストが計り知れない尊い犠牲を払って十字架にかかり、死んで葬られ、「眠った者の初穂」として「天国の身体」をもってよみがえった史実を確認させていただく。
天国における「身体のよみがえり」の約束は、人の生み出した思想でも、期待によるものでもない。天地を造られた神様が私たちを愛するゆえに、イエス・キリストの尊い犠牲を通し、保証してくださった確かな約束なのである。
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