大秦景教の名称について
1. 大秦景教の名称について
景教の名称は紀元後745年に「波斯(ペルシア)教」から「大秦」に改名したときに付けられたと考えられます。それまではシリア、ペルシアからシルクロードを通って中央アジアを経て敦煌に入り、都・長安に来唐したことから会堂を波斯胡寺としていました。胡とは西方、西域を意味し、東方に位置する中国では西方から来た人たちをそのように呼んでいました。
胡椒、胡麻、二胡などは有名で、また胡人とは中央アジアから中国に来て活動していたソグド人商人をいう字でもあり、景教徒の中には多くのソグド人商人がいて、商業ネットワークを持ち、今日的なビジネスマン宣教の先駆者であり担い手でありました。
781年に西安の大秦寺会堂内に建ったと考えられる大秦景教流行中国碑の中に、「強いて景教と称す」とあり、それが何年であったかは書かれていません。
中国の史書『冊府元亀』には、波斯僧の及烈が中国に来て、714年に玄宗皇帝に貢物を差し上げたことが書かれています。この及烈とは景教碑に出る及烈のことで、この年には波斯と書いてあり、大秦や景教の名は書かれていません。
景教の正式名称は「大秦景教」です。景教碑の頭部(碑首)にも大秦景教と刻まれ、讃美歌の大秦景教三威蒙度讃にも「大秦景教」とあります。ですから波斯(ペルシア)教を改めて大秦に改名したときに、景教の名と一緒にセットで「大秦景教」にしたと考えられます。それが745年のことです。
景教碑の末尾には彼らが「東方の景衆」と名乗り、東方に来た景教徒の意味で使っていたようです。会堂を大秦寺、景寺などと表記していました。
景の字の意味として、日+京の合成字で、日は光・太陽、京は大きいとのことから、大きな光、世の光で、闇を照らす世の光はイエス殿ですから景の字をあてたのでしょう。
2. ネストリアン・ネストリウス派の名称について
今日では、間違った表記として「ネストリウス派、ネストリアン」などの蔑称が西方教会から付けられ、現在に至っても神学校ではネストリウス派が使用され、ネストリウスが生きていれば反論し否定することでしょう。
国際景教研究会では、ネストリウス派を使わず、彼らが使っていた「東方景教」、東方教会、アジア教会などの名称にしようと協議されました。筆者はネストリウスの名は使用せず、アジア全体なら東方教会あるいは東方基督教、中国内なら東方景教、大秦景教と言うことが正式に近いと考えます。
3. 也里可温(エリカオン)教の名称について
840年代の武宗皇帝による外国宗教排撃追放政策の時に、仏教が主に排撃追放されましたが、景教徒も会堂をなくし、指導者は殺害され、信徒たちは辺境の地へと逃れました。やがて元の時代になって景教の文字は一切使わず、福音を意味する也里可温(エリカオン)を名乗りました。也里可温教徒は景教碑の上部にある十字の紋様に似た十字をつけて活動していきました。
特に北京の郊外の三盆山には十字寺会堂跡があり、そこの碑に十字寺を賜ったとあります。元代の史書には也里可温の名前も見えます。モンゴルではエリカオン教徒が多く住み、チンギスハーンの側近に多くいたといわれています。内モンゴルにはエリカオンの複数形のエルクート部族が住んでいて、彼らの墓石がオロンスムで多く発見され保管されています。
福建省泉州近辺にはシリア語で書かれた十字墓石が多く発見され遺されています。写真の石碑は筆者が撮影した、福建省泉州にある泉州海外交通史博物館に保存されている元の時代の十字墓石で、ほとんどが十字のシンボルとシリア語が刻まれてあります。
唐代の景教徒たち、その後のエリカオン教徒たちはイエスの福音を東方に伝えるために宣教にやってきて、唐代の皇帝にも福音を伝えつつ生きていたことが分かります。
※ 参考文献
『景教—東回りの古代キリスト教・景教とその波及—』(改訂新装版、イーグレープ、2014年)
旧版『景教のたどった道―東周りのキリスト教』
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