景教はどこから来たのか
635年に初代宣教師として中国の都・長安に宣教にやってきた阿羅本について、中国の史書『唐會要』巻49には「波斯(ペルシャ)僧阿羅本」とあり、景教碑には大秦国の阿羅本と書かれています。大秦については大秦景教宣元至本経に大秦那薩羅(ナザレ)とあり、大秦であるローマ帝国領ユダヤから来たことが分かります。
彼らの出発地は大秦のユダヤということで、そこから東へ向かい、ペルシャ、中央アジア、中国に至りました。そこで皇帝はじめすべての人に福音を伝えました。西アジアより東方にも散らされたイスラエルの民がおり、待望していたメシアが到来した重大な知らせを告知する必要がありました。
言語は主にシリア語とソグド語、一部ペルシャ語で、文字もシリア語を使い、発見された信徒の墓石や景教碑にもふんだんにシリア語が刻まれてあります。シリア語のメシアは漢字で「弥施訶」と表記します。ギリシャ語では「キリスト」ですが、その表記は一切見られません。従って景教徒たちは西方キリスト教でないことが分かります。
ちなみにシリア語とアラム語とへブル語は語根が同じです。ギリシャ語はヨーロッパ語ですので、書き出しが英語のように左から右に書きますが、シリア語は右から左に書き出します。しかし、中国に入っては東アジアの縦文字漢字文化に倣い、縦に書くようになりました。
彼らは、聖書と賛美歌や教理書などを持参していました。聖書については旧約聖書の冊数が24とあり、新約聖書は27と景教碑には刻まれています。旧約聖書が24とあるのはイエス様も用いたユダヤ教の聖書の冊数と同じで、例えば列王記やサムエル記などのⅠとⅡ(上下)を1冊にすると24となります。
賛美歌もシリア語から漢文にして中国で賛美していました。その一つに「景教三威蒙度讃」は洗礼式に歌ったものと考えられます。「・・・経」は聖書類、「・・・讃」は賛美歌、「・・・論」は教理書です。教理書の一神論は中国敦煌で発見され、日本に所蔵されています。
ユーラシア大陸の東西南北を結ぶ道は、昔からシルクロードといわれてきましたが、景教徒たちの宣教活動から考えますと、バイブル・メシアロードと言い換えることもできるでしょう。彼らは行く先々で福音を伝えていきました。それは、主なる神の命令である福音を世界に宣べ伝えるという使命があったからです。
※ 参考文献
『景教—東回りの古代キリスト教・景教とその波及—』(改訂新装版、イーグレープ、2014年)
旧版『景教のたどった道―東周りのキリスト教』
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