前回、「信仰の正統性」を問うことが歴史的に見て可能なのかという壮大な問題を、本書は内包していると述べた。そこで今回は、いよいよその中身に迫ってみたい。
まず、一般的な見解について見てみよう。本書では、著書の広野真嗣(しんじ)氏のインタビューに答えて、かくれキリシタン研究の第一人者である宮崎賢太郎氏が次のように語っている。
私は信仰というものは、教義の中身に本質があると考えています。生月(いつき)の信仰はたしかに信じられないほど愚直に守られているが、教義の中身については、信じられないほど理解されていなかった。(191ページ)
一方、広野氏自身は、代々続くかくれキリシタンの家庭に生まれ、後にカトリックの聖職者になった古巣馨(かおる)神父の言葉も借りつつ、信仰について次のように語る。
たしかに、行き詰った時、あるいは窮地に陥りかねない瀬戸際に、私たちは祈る。その方法のいくつかを、家族から受け取っている。そして家族を通じて手渡されてきたのは、生月の信仰も同じだ。(中略)彼らの方が、教会が置き忘れてきたものを持っているかもしれない。(228ページ)
「正統信仰」とされるカトリックが、生月島の無垢な信仰を「消してしまった」ということを、広野氏は釈然としない気持ちで受け止めている。推察するに、彼自身も高校以降は教会から離れてしまったということなので、生月島の信仰形態に幾分かは親和性があるのかもしれない。とはいえ、彼がここで問うているのは、私たちキリスト者の「信仰の在り方」に大きなパラダイム転換を求めることに他ならない。
歴史的に見るなら、そもそもプロテスタントも、カトリックの語る「正統性」、その教義に支配されることを拒んだところから始まっている。当然、彼らの信仰形態は、カトリックから認められることはない。三十年戦争からウェストファリア条約締結を経るまで、プロテスタントの信仰は認められなかった。いわゆる「消されかけた」ということである。
同じことが、今度は再洗礼派、ルター派、カルヴァン派の各教会間で起こっている。しかし彼らは、名称こそ異なれど同じプロテスタントであり、カトリックから「消されかけた」者同士である。その多様性を包含する許容性が当時の欧州には形成されつつあった。やがて米国へ各教派が渡ることで、「正統性」をめぐる宗教的なあつれきは少しずつ緩和されていく。
プロテスタント史においては、このような「正統と異端」(エスタブリッシュとセクト)のサイクルが繰り返されてきた。そういった観点から生月島の信仰を見るなら、同じような危機を彼らも通ったことが分かる。確かに生月島をめぐる問題は、日本のキリスト教伝来をめぐる独自の騒動である。しかしその本質を問うならば、これはキリスト教史で常に繰り返されてきた出来事と見なすこともできよう。
本書は、「世界遺産」となることで与えられる「名誉」に関して、その審査対象が宗教性を多分に包むものである場合、単なる外的要因のみに帰してしまう基準で判断してよいのか、と疑義を差し挟んでいる。古巣神父の言葉として、広野氏は次の箇所を取り上げる。
本来、世界遺産で問われるべきものも、そうして“命がけで子孫に手渡されてきたものがあるか”という、かなり深刻な問いだったはずです。(227ページ)
多くの人が理解と実践の歴史を積み重ねた果てに、「教義」や「信仰告白」というフォーマットで提示されたものだけが評価されるべきなのか。それとも、語られている内容は理解できていなくとも、弾圧をかいくぐり、親から子、子から孫へと受け継がれる中で、土着文化と融合しながら育まれたフォーマットもまた、一つの「教義」「信仰告白」として相対的に認められるべきなのか。
本書で語られる生月島には、かつてキリスト教を信じたが故に命を落とした殉教者たちの墓がある。しかしその墓はどれもささやかで、そこへ通じる道が大きな落石でふさがれていたものもある。落石の撤去にかかった費用は20万円ほどだったが、誰が費用を負担するか、また行政が負担するとしてもどの名目で予算を組むかなどで、実際に撤去されるまで1年以上を要したという。
一方、「国内最古のキリスト教建築物」として有名な大浦天主堂(長崎市)は、復旧工事のために7千万円ほどかかっているが、その出どころはほとんどが国や県の特別費である。
歴史的に見て、どちらも「聖地」の名にふさわしい。人数の大小ではなく、各々の信仰者にとってその地が特別なものであるべきであろう。しかしこのあまりの格差を前に、広野氏はただ戸惑うばかりである。彼はこう述べる。
自分がしたわしく思う聖地が尊敬を集めてくれたらいい、と誰もが思う。(中略)「世界遺産」というかたちで公認してもらう方法もあるが、祈りを大切にする者同士で静かに見つめ続ける方法もある。ただ大切なことは、祈る場所があること――。(232ページ)
この箇所から、答え無き問いの前に真摯(しんし)にたたずむ著者の姿が透けて見えるようである。
キリスト教とは、あらゆる文化や民族の在り方に寄り添い、浸透し、そして各々の色合いを醸し出すことができる多様性に満ちた側面を持っている。歴史的に見て、教義の必要性や正統信仰の確実性が歴史を良い方向へ動かしたことは多々ある。しかし一方で、自らの正統性を声高に主張し、他者の信仰を「異端」とか「異教」とおとしめ、結果的に長期にわたる消耗戦で両者が疲弊してしまった歴史も存在する。
世界遺産登録がなされた今、もう一度両者の声に真摯に耳を傾けてみるのもいいのではないだろうか。ぜひ信仰者にこそ読んでいただきたい一冊である。(終わり)
■ 広野真嗣著『消された信仰 「最後のかくれキリシタン」―長崎・生月島の人々』(小学館、2018年6月)
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