マーティン・ルーサー・キング・ジュニア牧師が生まれてから、今年で90年を迎えた。牧師の息子として生まれ、当時公然と人種差別が行われていた米国で、黒人公民権運動の指導者として生涯をささげた。米国ではキング牧師の誕生日に近い1月第3月曜日が「キング牧師記念日」と、祝日として定められており、今年は21日がその日に当たる。
活動中は何度も命を狙われ、39歳の若さで凶弾に倒れるまで、徹底した非暴力で差別と闘った。また、晩年に起こったベトナム戦争には明確に反対の意思を示し、反戦運動に取り組んだ。生誕90年の今年は、没後50年の昨年に続き、米国内では各地で記念の行事が行われている。本紙連載コラム「非暴力で差別と闘った人―キング牧師の生涯」(2015年掲載、栗栖ひろみ筆)から、その生涯を振り返る。
◇
6歳で経験した初めての差別
キング牧師は1929年1月15日、米南東部ジョージア州アトランタで、バプテスト派の牧師マイケル・ルーサー・キングとアルバータの間に生まれる。教会が大好きで、母の弾くピアノに合わせて賛美歌をよく独唱したという。その声は艶があって美しく、後に多くの人々の前で演説するのに役立った。
そのキング少年が最初に差別を経験したのは6歳の時だった。近所に住んでいた白人の双子の兄弟と仲良しで、同じ小学校に入学することを願っていた。しかし、彼らは白人だけの学校に行ってしまう。双子の母親に尋ねると「あなたは黒人だから、もう一緒に遊べない」と言葉が返ってきた。
非暴力思想との出会い
その後も黒人に対する差別を身をもって経験するが、成績は非常に優秀で、15歳で地元のモアハウス大学に合格する。父と同じ牧師を目指すことを決め、19歳でクローザー神学校に入学。ここでキング牧師は、人生の土台となる著書『キリスト教と社会の危機』(ウォルター・ラウシェンブッシュ著)に出会う。キリストの福音は人間の魂のみならず、肉体や現実生活をも救うものであるとするその内容に深く感銘したのだった。
神学校入学の翌49年1月、インドの指導的人物マハトマ・ガンジーが暗殺されたというニュースが世界を駆け巡った。その年のクリスマスには、全米屈指の名門黒人大学であるハワード大学の学長の呼び掛けにより、インドで宗派を超えた「世界平和者会議」が開催される。会議に参加したキング牧師は、非暴力で闘ったガンジーの信念に大きな感動を覚え、それはまた「右の頬を打たれたら左をも差し出しなさい」というイエスの教えとも重なると考えた。
モンゴメリーへ
クローザー神学校卒業後、さらに神学を学ぶため、ボストン大学大学院に進んだキング牧師は、そこで妻となるコレッタ・スコットと出会い、在学中に結婚する。そして大学院卒業後、アラバマ州モンゴメリーのデクスター・バプテスト教会に牧師として赴任する。赴任先としてこの地を選んだことが、彼のその後の人生を大きく変えることになるとは、この時まだ誰も知らなかった。
モンゴメリーは市民12万人のうち、黒人が約4割を占め、その多くは貧しかった。また州の条例で白人と黒人の隔離が行われており、バスには白人席、黒人席があった。しかし黒人たちは、命じられれば白人に席を譲らねばならず、非常な屈辱を経験していた。
バスのボイコット運動
55年12月1日、バスに乗車したローザ・パークスという黒人女性が、運転手から白人に席を譲るよう命じられたがそれを拒否し、逮捕される。パークスはその日に釈放されるも、これが黒人たちの怒りを招いた。友人牧師のラルフ・デービッド・アバナシーを通じて事件を知ったキング牧師は、共にバスのボイコット運動をすることを決めた。
ボイコットの開始日は12月5日。パークスが裁判にかけられる日だった。教会で7千枚以上のビラを印刷して黒人たちに配り、また黒人のタクシー会社と協力して、バス代と同じ料金でタクシーを利用できるようにするなどした。パークスは有罪判決を受け、罰金刑となったが、ボイコット運動は大成功。その夜に教会で開かれた集会で、キング牧師は4千人近い黒人たちを前に語った。
「われわれの抗議の方法は、白人差別主義者のやり方とは違うことを見せなくてはなりません。われわれは、十字架を焼いたり、白人を家から引きずり出して殺害したりするようなまねはしません。脅迫も侮辱もしません。私たちはキリスト教の深い教理に従って行動しなくてはならないのです。今ここで、幾世紀を隔てて、再びイエスの言葉に耳を傾けなくてはなりません。『あなたの敵を愛しなさい。あなたを呪う者を祝福しなさい。あなたを虐げる者のために祈りなさい』――これであります」
白人差別主義者たちの妨害が激しくなる中、バスのボイコット運動はその後も続き、ついに56年11月13日、連邦最高裁は、バスにおける人種差別を規定したアラバマ州条令に対し違憲判決を下し、キング牧師たちの運動は勝利に終わった。
「私には夢がある」
60年、キング牧師はモンゴメリーの教会を辞任し、家族と共に故郷アトランタへ移る。その後、キング牧師の影響を受けた学生たちによる座り込み運動が各地で広がる。しかし一方で、各地の当局や白人差別主義者たちによる妨害も激しさを増した。
63年には、4〜5月にかけて行ったアラバマ州バーミングハムの運動が成功を収め、エイブラハム・リンカーン大統領の奴隷解放宣言100年を記念した8月の「ワシントン行進」には20万人以上が参加。キング牧師はここで、有名な「I Have a Dream(私には夢がある)」と語る演説を行った。
11月には、キング牧師の運動を支えてくれていたジョン・F・ケネディ大統領が暗殺されるが、その後に就任したリンドン・ジョンソン大統領は、ケネディ大統領以上にキング牧師たちの運動に理解を示してくれた。そして、翌64年7月2日に公民権法が制定。これで米国の黒人は法的に人権を認められることになった。さらにその年の12月、キング牧師はノーベル平和賞を受賞した。
ベトナム反戦運動
66年になると、全米はベトナム戦争のために揺らぎ、連邦政府は貧困や差別問題に対する政策を遅らせた。キング牧師は「戦争」と「人種差別」を同じ重さを持つ悪と考え、全米各地の運動指導者たちと手を携え、反戦のためのさまざまな計画を立てた。
告別の説教、翌日の死
ミシシッピ州メンフィスで黒人清掃労働者のストライキを支援していたキング牧師は68年4月3日、地元の教会で行われた集会で「I've Been to the Mountaintop(私は山の頂きに立った)」という説教をする。それはまるで、最期の別れを告げるような内容だったが、果たしてその翌日、キング牧師は突然、この地上での生涯を閉じることになる。モーテルで友人のアバナシーを待つため1人になったところを銃撃される。駆け付けたアバナシーの声にも動かず、病院に運ばれたが、そのまま息を引き取った。
葬儀は故郷アトランタで行われ、キング牧師に最後の別れを告げるため、多くの群衆が押し寄せた。白人も黒人も交じり、各界の著名人も、政府高官も、連邦捜査局(FBI)の警官さえも。その時、泣き叫びながら後を追う黒人の女の子をそっと抱きしめた白人の学生が、その耳にささやいた。
「キング牧師は今も生きているよ。白人と黒人が本当のきょうだいになれるように、お祈りをしてくださっているんだよ」