何とイエス・キリストの系図に連なる私たち各自
皆様のお宅には、親から子、子から孫へと伝えられている系図がありますか。あるいは、どなたか特定の人物の系図を詳しく調べたことはあるでしょうか。
何と、聖書には実にさまざまな系図が登場します。しかし極め付きは、新約聖書最初の書・マタイの福音書1章にある「イエス・キリストの系図」とその内容です。
今回は、そこに登場する、それぞれただ者ではない女性たちの中で、5節の「遊女ラハブ」に焦点を絞りたいのです。それによって、混乱の時代に歩み続ける私たちになお、確かな「足のともしび」「道の光」が与えられ、今年のクリスマスの忘れがたい記念としたいのです。
聖書の系図と私たちの系図の違い
ところで、系図といっても私たちが知っている系図と聖書の系図とは、同じ言葉を使っていても内容が大きく違います。
聖書で系図が特徴的に登場するのは、旧約聖書最初の書・創世記です。
有名なアダムの系図から、代表的な人物の系図が次々に登場します。ご存じのように、アダムは最初の人間です。確かに、創世記5章1節で「これはアダムの系図の書である」(新共同訳)とあります。しかし、実際にはアダムの父や母が登場するわけではありません。そうではなく、アダムの子どもたちがアダムの系図の内容として記されているのです。このアダムに見る例は、他の人物についてもまったく同じで、その人物の父や母と、過去に戻るのではなく、その人物からどのような子どもや孫が生まれたか、つまりどのような将来・未来が展開されたかが提示されています。この事実は、実に注目すべき特徴です。
同様のことが、ヨハネの福音書9章の生まれつき目の見えない人をめぐる、主イエスと弟子たちの会話にも鮮明です。弟子たちが「先生。この人が盲人で生まれたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。両親ですか」(2節)と尋ねたのです。これは、当時のそして現在においても同じである親や本人の過去が原因で現在を決定しているという、因果応報の考え方や影響です。
これに対して主イエスは「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。この人に神のわざが現れるためです」(3節)と真っ向から宣言なさいます。
系図の場合とまったく同じ対立・対称の図式です。現在を過去が決定し、左右するとして、父や先祖を提示する私たちの身近な系図。しかし、聖書が明示する系図は、現在からどのような将来・未来が展開するか、つまり神のわざが現れるかが中心なのです。
ラハブの位置
以上の聖書の系図の特徴に意を注ぎながら、「イエス・キリストの系図」の中でのラハブの位置を確認したいのです。
ラハブについては、ヘブル書11章31節で「遊女ラハブ」と紹介されています。そして、カナン入国とイスラエルの民の荒野の出発とゴールという、イスラエルの民全体に関わる2つの出来事と並べて、ラハブ個人のことを描いています。そうです、ヨシュア記2章が記している通りです。
イスラエルの民がカナン入国に先立ち斥候を派遣した際、ラハブは王の命令をも恐れず彼らをかくまうのです。なぜそのようなことをなしたのか。
エリコの人々が先祖伝来の強固な城壁を頼りにしていた中で、ラハブは主なる神の力やご計画を知り、このご計画に自らもあずかりたいと願ったのです。これはそれ故の行為だったのです。
ラハブは、いろいろなうわさや評判を自分なりに集め、総合的に判断したのです。イスラエルの民の背後に唯一の神の御手を見、イスラエルの勝利を見抜いたのです。この異邦の女性はイスラエルの神のご計画を見抜き、それを大切に考え、その完成を信じていました。他の人々とは違った彼女らしい判断を持ったのです。
ラハブは「遊女ラハブ」と呼ばれる過去を持っていました。その彼女を、主なる神がイエス・キリストの系図、信仰の系図の中に招き入れたのですから、遊女ラハブの存在は、いかなる状態の人間をも救う主なる神の恵みの事実を指し示しています。さらに、主なる神を信ずる者から起こされる信仰が生み出す行為をも明示しています。
そうです、私たちの過去にもかかわらず、私たちをご自身のご計画のために用いなさる神の憐(あわ)れみ。アブラハムやモーセの神は、また遊女ラハブの神であり、まさに私たちの神なのです。
私たち各自がどのような過去を持っているとしても、それによって私たちの現在が左右され決定されるのではないのです。何と、何と、このあなたが、この私が、ラハブと同様にイエス・キリストの系図の中に呼び入れられ、私たちの生活と生涯を通して、神の御業が現されるのです。このクリスマス、命懸けのラハブに学び、恵みを無駄にせず、私たちなりに応答したいのです。
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