<本文と拓本>文字32(1272+32=1304)
自王舎之城[注](遠く王舎城より)、聿来中夏(ついに中夏に来る)、術高三代(術は三代に高く)、蓺愽十全(芸は十全に博し)。始効節於丹庭(始めて使節を丹庭に効し)、乃策名於王帳(乃ち名を王帳に策す)。中書令[注]
<現代訳>
遠くバルクの地より中国に来ました。武術は三代に高く、芸能においても優れていました。初めて宮庭に招かれるや王帳にその名が記されるほどでありました。中書令
[注]王舎城とは、中インドのマカダ国との説。別にアフガニスタンのバルクとの説あり。おそらく景教徒たちの中国宣教の拠点としてシルクロードの多くある道のバルクをその地にしたのだろうと考える。景教碑の撰文下に彫られたシリア語文から見るなら、トカリスタンとあり、アフガニスタン北部に位置する所と考える。
[注]中書令とは、皇帝が出す詔勅の起草を担当する官職名で、国政に参与する権限もあった。
<解説>
中央アジアのバルクより中国の都長安に来た景教徒の伊斯は、信仰者として立派に生き、与えられた賜物の武術や芸能が生かされ、唐の皇室に招かれるや高く評価される人物でもありました。
※ 参考文献
『景教—東回りの古代キリスト教・景教とその波及—』(改訂新装版、イーグレープ、2014年)
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