<本文と拓本>文字32(1240+32=1272)
大施主金紫光禄大夫[註](大施主で金紫光禄大夫)、同朔方節度副使[註](同朔方節度副使)、試殿中監[註](試殿中監)、賜紫袈裟[註]僧[註]伊斯(紫の袈裟を賜りし僧の伊斯)、和而好恵(和で恵を好み)、聞道勤行(道を聞いて行に勤しむ)、遠・・・
<現代訳>
大いなる景教徒の献身者で金紫光禄大夫、朔方節度副使、試殿中監の紫の衣を賜った指導者の伊斯は、恵みを好んだ平和の使者、彼は教えを聞いて信仰の道に励み、遠く・・・
[註]金紫光禄大夫とは、金印の印章に紫色の綬帯をいい、光禄大夫とは正三品の文官で、その立場にあったことをいいます。
[註]試殿中監とは、皇帝の衣食住を管轄した立場のこと。
[註]紫袈裟とは、皇帝から賜った栄誉の衣服で、それを着用して皇帝に接見しました。
[註]当時はどの宗教団体の指導者も僧という文字が使われていました。現在では仏教僧侶だけですから誤解が生じるかと思いますが、当時の社会事情を学ぶことにより、誤解が解消できると考えます。大切な言葉の1つです。
[註]伊斯とは、唐皇帝に仕えた品位の高い景教徒で、シリア語名ではイズドボジードとの説があり、同一人物なら景教碑の下部分にシリア語で彼の名と業績が彫られた者といえます。玄宗の後の粛宗皇帝が伊斯を遠く朔方(突厥)に派遣したのは在位年の756年から761年の間で、イラン系の伊斯と同じイラン系ソグド人の安禄山が安史の乱を起こし、その平定に適当と考えられたと思われます。
[註]節度使とは、地方軍と地方財政を統括する地方組織。710年の安西をはじめ、霊州の朔方(突厥)など計10カ所に節度使が置かれました。742年に節度使に就任したソグド系突厥人の安禄山はその1人で、玄宗皇帝に謀反を起こしました。755年に安禄山の乱が起き、756年に皇帝と称しましたが、翌年、子によって殺害されました。
<解説>
皇帝から官位を授けられた高官で、恵みに満ちた景教徒の伊斯はどんな人物だったのでしょうか。彼の存在と働きが当時の景教徒の励みや力となっただけでなく、唐の皇室においても大きな働き手でした。唐が弱体化して内紛と戦いにあったときに、粛宗皇帝を助けた人物でした。
その功績があったことから、皇帝から官位や金印、衣などが名誉として与えられ、それらの金品を景教徒の貧しい者、病む者にささげ、神の兄弟愛を証しした人物でした。柔和で恵みを好む人物で、信仰の道に励んだと伝えています。
※ 参考文献
『景教—東回りの古代キリスト教・景教とその波及—』(改訂新装版、イーグレープ、2014年)
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