<本文と拓本>文字30(1114+30=1144)
乹以美利(且つ乹は美利を以て)、故能廣生(故に能く生を廣む)。聖以體元(聖は元の體するを以て)、故能亭毒(故に能く亭毒<養育>す)。我建中聖神文武皇帝(我が建中で聖神文武皇帝は)、披八政[註]以黜陟幽明(八政を披いて以て幽明を黜陟し)・・・
<現代訳>
天からの恵みは民を生かし、生物は繁栄し、聖である皇帝は、景教を知り、かつ養われました。我が建中聖神文武(徳宗)皇帝<742~805、在位779~805。第12代皇帝>は、8つの政策において・・・
[註]八政は、国の8つの主要政策で、食(農事)、貨(金融財政)、祀(宗教)、司空(土地)、司徒(教育)、司寇(裁判)、賓(もてなし外交)、師(軍事)をいう。
<解説>
聖神皇帝(一般に徳宗皇帝と呼ばれている)は、代宗皇帝の長子として生まれ、安史の乱を平定し、即位後は財政再建などに努めたものの、反乱などで政治勢力は弱体化していきました。この時代は中興の治と呼ばれ、夏と秋に徴税を行いました。彼は内部反乱により一時、長安を離れたことがあります。節度使の権力が強まり、唐代が弱体化する時代でもあります。
この時代の781年に景教碑が建ちました。景教碑が建てられた時代は、聖神皇帝が存命中である故に、死後につける名である廟号の徳宗はあり得ません。旧唐書の徳宗紀の冒頭には徳宗神武孝文皇帝とあります。諡号(しごう)は神武孝文皇帝。
※ 参考文献
『景教—東回りの古代キリスト教・景教とその波及—』(改訂新装版、イーグレープ、2014年)
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