<本文と拓本>文字29(1304+29=1333)
汾陽郡王郭公子儀初惣戎於朔方也(<位は>中書令、汾陽郡の王の郭公子儀[注]の初めて戎を朔方に惣ぶるや)。粛宗俾之従邁(粛宗は之をして従い邁かしむ)。雖見親於臥内(臥内に親しく見ゆると雖も)、不自・・・
<現代訳>
汾陽郡(中国山西省の中部、太原盆地の南西端の地)の王の郭公子儀が初めて戎族を朔方で平定したとき、粛宗は彼を従軍させました。寝室に出入りできる親しさにありながらも、自身を・・・
[注]郭公子儀(カクシギ、697~781)は、中国唐代の名将で、玄宗、粛宗、代宗、徳宗の4代の皇帝に仕えた。754年に朔方節度右兵馬使になった翌年に安禄山の乱が起き、やがて皇帝を助けて国家再建の功労者となった。その後のクーデターなどを平定し、779年の徳宗皇帝即位後に大尉中書令の最高官となり、汾陽郡の王となった。孫が皇帝の后となり、穆宗皇帝は曾孫に当たる。
<解説>
郭子儀が765年にリーダーとなって、ウイグル軍の協力を得て吐蕃らの軍を平定したときに従軍したのが伊斯でした。この時代は、中国西側方面が不安定となっていました。
唐軍はなぜ彼を従軍に召し出したのか。それは、彼が西方面の現在のアフガンの北、中央アジアのバルクからシルクロードで唐に来ていたことから、この地のことは理解し、アラム語を母語とするシリア語を語り、反乱軍たちが語るソグド語も理解していたと考えるなら、ふさわしい人物であったとみることもできます。
※ 参考文献
『景教—東回りの古代キリスト教・景教とその波及—』(改訂新装版、イーグレープ、2014年)
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