主の御名をあがめます。
あけましておめでとうございます。マロです。
皆様、どんなお正月を過ごされたでしょうか。新年の目標を立てた方もいらっしゃるかもしれません。僕は毎年、そういうのは立てません。神様が毎年、思いもよらぬ御業をなしてくださるゆえに、自分の立てる目標があまり意味をなさないことを実感しているからです。ただただ主に身を任せて今年もゆるゆるまいろうと思います。よろしくお願いします。
さて、お正月になると、人と会うたびに「おめでとう」という言葉を交わします。時間が流れて自動的に年が明けたというだけで、特にめでたい出来事が起こったわけではないのですが、それでも「おめでとう」と言われれば悪い気はしません。「おめでとう」というのは、理由なしに気持ちのいい言葉なんだな、と思います。
「おめでとう」の語源は「愛でたい」、つまり「愛したい」ということです。「あけましておめでとう」は「年が新しくなっても、あなたを愛していたい」という意味になるわけです。小さな愛の告白です。愛の告白というととても照れくさいものですが、「おめでとう」は、それを照れずに言うことができる魔法の言葉なんです。そう考えれば、「おめでとう」と言われて嬉しい気持ちになるのは至極当然な気がしてきます。「君は愛されるために生まれた」という賛美が近年、クリスチャンの間で人気ですが、「おめでとう」というその一言は、たった5文字でこの歌の主旨を表現できてしまうのです。
聖書に「おめでとう」という言葉が出てくるのは1回だけです。それは、マリアが天使から受胎告知を受けるシーンです。「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます」(ルカ1:28、新改訳)。聖書の中でも屈指の祝福シーンです。それまでただの町娘だったマリアを、神様が「あなたは私に愛される価値がある」と宣言したということです。いわば、神様からマリアへの愛の告白です。
そしてその宣言は、やがてマリアから産まれた子、イエス・キリストによってこの世のすべての人々に拡大されました。つまり、聖書に1回だけのこの「おめでとう」は、私たち一人一人に向けられた祝福の言葉なんです。私たちはみんな、神様から「愛してるよ」って小さな愛の告白を受け取っているんです。
「おめでとう」という言葉は、今の社会ではどちらかと言うと、人よりも出来事を対象にすることのほうが多いように思えます。「年が明けた」「仕事が成功した」「子どもが産まれた」「試合に勝った」など、何らかの出来事に対して「おめでとう」がよく使われます。しかし、上の聖書のシーンでは、出来事ではなくマリアその人に対してこの言葉が発せられています。「神の子を宿した」という出来事に対して「おめでとう」と言っているわけではないのです。愛の本質は、人への愛です。出来事への愛というのも場合によってはあるかもしれませんが、人を愛することが愛の本性です。
こういう、出来事でなく、人に対する「おめでとう」を、私たちはどれだけ口にしているでしょうか。そんな「おめでとう」が増えたら、世の中はもう少しだけ平和で笑顔に溢(あふ)れると思うのです。まだもうしばらくは会う人会う人に「あけましておめでとう」と言う日々が続くと思います。その時はちゃんと「あなたを愛します」という意味を心に留めて、この言葉を相手に送りたいと思います。小さな愛の告白として、大切に丁寧に送りたいと思います。
ところで、ツイッターの質問コーナーで「クリスチャンは年賀状を出してもいいんですか。異教の風習ということになりませんか」という質問をいただいたのですが、これについては大いに出すべきかと思います。普段会わない人にも、ハガキに乗せて「今年もあなたを愛します」と伝えるなんて、むしろ思いっきりキリスト教精神に則(のっと)ったものだと思います。プチ・ラブレターですね。僕は去年に身内の不幸があったので今年は控えましたけれど。
ちなみに、クリスチャンでもおせち料理やお雑煮は食べます。中には食べない人もいるかもしれませんが、多くの人は食べると思います。門松、しめ飾り、鏡餅なんかは飾らない人のほうが多いかもしれませんが。クリスチャンであっても、日本人は日本人ですから、お正月は楽しみます。
2018年、お正月期間が終わっても、たくさんの「おめでとう」が飛び交う1年になりますように。この小さな愛の告白がたくさんたくさん積もって絡み合えば、きっととんでもなく大きな愛が出来上がると思うのです。
それではまたいずれ。主にありて。マロでした。
◇