主の御名をあがめます。
マロです。秋も深まる週の初めの月曜日、皆さま、いかがお過ごしでしょうか。
先日の土曜日、僕は何の用事もなかったので、たっぷり朝寝をしてやろうと、前の晩にお酒を飲んで、ゆっくり寝ていました。すると、朝の7時半に電話がかかってきました。
「こんな時間に誰だー!?」と少しイラっとしながら、かつまた、「もしかして何か緊急の連絡ではないか」と若干の緊張感を抱きながら電話に出てみましたら、声の主はうちの牧師でした。しかも、大した用でもなく。何の緊迫感もなく、いつも通りのゆっくりした口調で、「ああ、横坂くん?もしかして寝てた?起こしちゃった?」
休日の7時半ですよ。寝ている人、多いですよね。僕は普段から生活シフトが遅めなので、平日であってもまだギリギリ寝ています。まして休日なら、ほぼ間違いなく寝ています。
まったく、なんて気の利かない牧師だ!!!
・・・と、今回はいきなり牧師の悪口から始めてみましたが、うちの渡辺俊彦牧師の悪口なんて、書こうと思えば、それだけでこのコラムの原稿3回分くらいはいけます。
漢字は読めない、書けない。そもそも、ひらがなでさえ何が書いてあるか分からないくらい字が汚い。「ミミズがのたうったような字」なんてよく言われますけれど、ミミズがのたうったって、あんなに汚い字にはなりません。むしろミミズに失礼です。週報やもろもろの原稿はさすがにパソコン書きですが、これも誤字脱字の百貨店状態。何冊も本を出していますが、編集の方は大変な苦労をなさったでしょう。
他にも、子どもたちのために用意していたお菓子を勝手に食べるわ、新来者の前でイスに足をのっけて昼寝するわ、頑固だわ、感情のアップダウンは激しいわ、世間知らずだわ、人使いは荒いわ・・・・まあ、いくらでも出てきます。
というわけで、今回はうちの牧師の悪口特集でした。それではまたいずれ。主にありて。マロでした。あー、すっきりした。
・・・って、ウソです。終わりませんよ。どうして今回、こんなにうちの牧師の悪口を書いたかと言いますと、この「牧師の欠け」というのが、私たち信徒の信仰や心の在り方にとって、非常に大切なキーになるからです。
牧師に完璧な人物像を求めてしまってはいませんか。
牧師だから清く正しいはず、牧師だから優しいはず、牧師だから何でも知っているはず・・・。そういった牧師に対する過度な期待が、「教会疲れ」や「教会離れ」を引き起こしてしまうケースが、実は決して少なくありません。そういった過度な期待は、「牧師のクセに◯◯だから失望した」だとか、「牧師が◯◯だからもう嫌だ」だとか、マイナスの感情の原因になりますし、「完璧であるはずの牧師が言うことなんだから、忠実に聞かなくては、自分が不信仰ということだ」と自分を追いつめてしまう人もいます。
また、そういった期待は牧師自身を追いつめ、苦しめてしまうこともあります。人は生まれながらに期待に応えようとする性質を持っています。それは牧師も同じことです。信徒から「完璧な人格」を期待された牧師は、「完璧な自分」を演じることを強いられる場合があるのです。こうなってしまうと、牧師にとっても信徒にとっても不幸です。信徒はますます「私の理想の牧師像」を押し付け、牧師は表面だけでも取り繕おうとする。牧師の「演じられた完璧」を見て、「自分もああならなくては」と追いつめられる信徒も出てきてしまう。こうなってしまったら、その教会はすでに危機的状況であると言えるかもしれません。
牧師の読者の方も非常に多いであろう「クリスチャントゥデイ」であえて断言してしまいますが、今回、皆様に伝えたいことはこの一言に尽きます。
「牧師なんてロクなもんじゃない!!」
はい、今、僕は全国の牧師さんたちをいっぺんに敵に回したかもしれません。でも、構わず続けます。僕が心から従う準備があるのは世界でただ1人、イエス・キリストだけですから、たとえ世界中の牧師を敵に回しても構いません。
牧師だって、ただの人です。牧師だって、神様の前では罪人にすぎません。「義人はいない。ひとりもいない」のです(ローマ3:10)。「義人」は、主イエスただお1人を除いては、誰もいないのです。牧師をその「義人」に仕立て上げてしまうのは、主の恵みを冒涜(ぼうとく)することでさえあります。牧師が「義人」になれるのなら、人は皆、牧師を手本に、牧師を目指して生きればいいわけで、主イエスの救いを必要としなくなってしまうからです。私たちは牧師に仕えるのではなく、主イエスに仕える者です。牧師を手本にするのではなく、主イエスを手本に生きるのです。
牧師というのは、例えて言うならば、教会というチームの4番打者です。いろいろなケースはもちろんありますが、往々にして4番打者というのは打撃に専念して、守備や走塁は上手じゃない選手も多いものです。しかし、「あいつは4番のクセに守備が下手だ」とか、「4番のくせに足が遅い」なんて文句はあまり聞かれることがありません。4番打者はホームランを打ったり、チャンスでヒットを打ったりすればいいんです。守備や走塁は他の選手に任せればいいですし、1番打者や2番打者が4番打者の真似をする必要もありません。
もう1つ別の例えをすれば、牧師は教会の心臓です。心臓は人にとって最も重要な臓器と言えますが、万能な臓器ではありません。しかし、もし胃袋が「あいつは心臓のくせに、食べ物の消化もできないなんて!」と文句を言ったとしたら、おかしいでしょう。胃袋が「心臓さんが血液を送り出すポンプ役をやっているんだから、自分も見習ってポンプにならなくては!」なんて考えたら、おかしいでしょう。胃袋のできないことを心臓がやり、心臓のできないことを胃袋がやればいいんです。
「どうしてうちの牧師はこうなんだろう」とか、「牧師がもし◯◯だったら教会をもっと好きになれるのに!」とか思っている方はいませんか。牧師が教会生活の上で重荷になってしまっている方はいませんか。また反対に、「完璧にならなくては!」と自分を追い込んでしまっている牧師さんはいませんか。
「牧師なんてロクなもんじゃない!」と、心の中で叫んでみてください。もしかして楽になれるかもしれません。僕も実際、教会で面と向かって牧師に悪口を言えるようになってから、教会生活がグッと楽になりましたし、牧師の弱さ、至らなさにもほんの少しですが共感できるようになって、真に自分が従うべきは牧師ではなく、イエス・キリストただ1人なのだということを体感することができました。「牧師は、従うものではなく、支えるものだ」と理解することができました。だから、ちょっと勇気は必要かもしれませんが、思い切って叫んじゃってください。
「牧師なんてロクなもんじゃない!!」
今回はうちの渡辺俊彦牧師の悪口をたくさん書きましたが、先日の礼拝の時に「今度のコラムで先生の悪口を書きますからね!」と断っていますし、今回書いた悪口はいつも僕が教会で面と向かって言っていることばかりなので、先生も今頃このコラムを読んでニヤニヤしていることでしょう。先生もこの「クリスチャントゥデイ」でコラムの連載をしているので、そちらも読んでみてくださいませ(渡辺俊彦コラム)。
今度こそ本当に、それではまたいずれ。主にありて。マロでした。(あー、すっきりした)。
◇