主の御名をあがめます。
マロです。週の初めの月曜日、皆さま、いかがおすごしでしょうか。
昨夜は秋刀魚(さんま)の塩焼きを食べました。秋の味覚の代表選手ですよね。これを食べなきゃ、秋を満喫したとは言えません。肝(きも)の香りで満たされた口の中に焼酎を流し込むと、これはもう至福です。
え?「クリスチャンもお酒を飲むんですか」って?ええ、飲みますとも、呑(の)みますとも。少なくとも僕は大好きです。さて、今日もゆるゆると始めてまいりましょう。
先日、事務所の近くの道を歩いていたら、近所のおばさんが何やら新興宗教のチラシを配っていました。顔見知りの方でしたから、話しかけたら、「あんたもどう?」と誘われました。もちろん、「いやいや、実は僕はクリスチャンだから」と断りましたが、そうしたらこう言われました。
「キリスト教かー、あたしも前に入ってたことがあったけどね。でも、あたしはいくら頑張っても、いい人になんてなれなかったよ」
ノンクリスチャンのクリスチャンに対するイメージをすごく端的に表された気がして、僕は少しギョッとしました。「お前らは偽善者じゃないか」と言われた気がしたのです。
また、ギョッとしたすぐ後にハッともしました。そうか、この人は「いい人じゃなきゃクリスチャンは務まらない」と思っている。逆に言えば、「クリスチャンはみんないい人だ」と思っているんだな、と。さらに考えると、この人は前に教会に通っていた時は、「いい人にならなくちゃ」と、とても頑張ったのだろうな、と。でも、自分が思うような「いい人」になれずに苦しんで、そして挫折し、神様から離れてしまったのだろうな、と。
どんな努力をしたかは分かりません。「お酒やタバコをやめなきゃ」と思ったかもしれませんし、「困っている人みんなに優しくしなきゃ」と思ったかもしれません。「ボランティアをたくさんしなきゃ」とか、「募金をしなきゃ」とか思ったかもしれません。でも、とにかく頑張って、苦しんで、挫折して、教会を離れてしまったのです。
じゃあ、僕はクリスチャンだけれども、このおばさんがクリスチャンに期待しているような「いい人」だろうか。いやいや、まったくそんなわけはありません。僕なんか正直に言ってしまえば、お酒もタバコも大好きですし、困っている人がいても、自分が疲れていたら、見ないふりをして通り過ぎたりしてしまいます。時には人の悪口を言ってしまうこともありますし、それどころか殴り合いのケンカをすることさえあります。やらなきゃいけないことを後回しにしてサボることもありますし、仕事上でウソをつくことだってあります。妙齢の女性は好きですし、そんな人の前ではいらぬ見栄(みえ)を張ってしまうことだってあります。
そんなもんですから、僕なんてもうまったくこのおばさんが期待するような「いい人」なんかじゃないわけです。そんな僕がクリスチャンだと堂々と名乗り、あろうことか「クリスチャントゥデイ」でこのような連載記事を書いたりまでしているわけですから、なんだかもう、僕はおばさんに対して申し訳ないような気分になってきました。
でも、あえて声を大にして言います。開き直るようで申し訳ないですが、言います。
「クリスチャンはいい人なんかじゃないし、いい人である必要もない!」
クリスチャンの方、またはクリスチャンではないけれども教会に通っているという方で、自分が「いい人」でないことに苦しんでいる方はいませんか。「いい人にならなきゃ」と自分を追いつめている方はいませんか。いいんです、「いい人」なんかじゃなくて。
通っている教会にいる周りの方がみんな「いい人」に見えて、それで「いい人」じゃない自分との落差を感じたりしていませんか。劣等感を抱いたりしていませんか。大丈夫です。落差なんてありません。劣等感なんて抱く必要はこれっぽっちもありません。
もう、思い切って言ってしまいますけど、その教会の人たち、誰一人「いい人」なんかじゃないですよ!
人は誰もが罪を犯す存在ですし、清く正しくなんて生きられない存在なんです。「義人はいない。一人もいない」と聖書にも書いてある通りです。クリスチャンは自分がそんな罪深い存在であること、「いい人」なんかじゃないということを神様の前で公に認めたという、ただそれだけの人です。くだけた言い方をすれば、「俺は悪いやつだー!」と宣言した人がクリスチャンであり、その集合体が教会です。
もし教会が「いい人のふりをして」いるなら、それはむしろ伝道の邪魔になってしまいます。「いい人でいなきゃ」というプレッシャーは、想像以上に教会を訪れる人々に襲いかかりますし、定期的に通うようになった方にはなおさらです。もっと言えば、すでに洗礼を受けてクリスチャンになった方をも苦しめます。教会はもっと自分たちの「いい人じゃない」部分を正直に見せるべきではないでしょうか。
私たちクリスチャンは洗礼を受ける時に、自分が罪人であると自分で認めたはずです。はっきりと告白したはずです。そして、今も毎週の礼拝で罪の告白をしているはずです。私たちは罪人なんです。罪人であり、それを神様と会衆の前で公に認めた以上、もはや自分の罪を隠す必要なんてありません。きつい言い方をしますが、「自分はすでに救われたのだから、罪人ではないのだ!清く正しい人間になったのだ!」と言う人がいるなら、その人は教会を去るか、もう一度初めから聖書の勉強をやり直したほうがいいでしょう。
少し教会批判みたいになってしまいましたが、私たちの教会も含め、「いい人プレッシャー」というのは、教会やクリスチャンが最も陥りやすい落とし穴の1つだと思うんです。これはもはやサタンの働きであると僕は思っています。サタンが人々を教会から離れさせようとして仕掛けた巧妙なワナ、それがこの「いい人プレッシャー」です。
ノンクリスチャンの友人に時々、「お前みたいなやつでも務まるなら、俺でもクリスチャンできるな」なんて言われます。そんなことを言われると、実は少しうれしいんです。「お前は悪いやつだ」と悪口を言われているわけですが、それがうれしいんです。なぜなら、その友人にとって教会と神様の救いへの距離が少し縮まったということですから。だから、そう言われたら、こう答えます。「このくらい悪くなきゃ、むしろクリスチャンなんて務まらんよ」
いい人なんかじゃ務まらない、むしろ悪いやつにこそふさわしい。それが主の与えてくださった救いなのだと思います。
「昔は俺もワルだったんだぜ」とワルさ自慢をしている人たちを時々居酒屋で見かけますけど、あれと同じように、「先週も俺はワルだったぜ」と教会で毎週ワルさ自慢会を開催しちゃうくらいのほうが、少なくとも「先週、私はこんなにいいことをしました」なんて自慢会をするよりははるかに健全かもしれません。居酒屋でも、そんな自慢をしている人はいません。なぜなら、そんなの楽しくないし、誰も幸せな気分にならないって、みんな知っているからです。
教会って、居酒屋に見習うべきところがいくらかあるかもしれませんね。手始めに、今度の礼拝後のランチは秋刀魚を焼こうかしら。焼酎はさすがに難しいとしても。たぶん、煙だらけになって怒られるな(笑)。
それではまたいずれ。主にありて。マロでした。
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