主の御名をあがめます。
マロです。週の初めの月曜日、学生の方々は新学期が始まったのでしょうか。夏休みの宿題は終わりましたか。今回もゆるゆるまいります。
いきなり重たい話で恐縮ですが、先日、父を亡くしました。ちょうど前回のこのコラムの原稿を終わらせた直後のことでした。あれから2週間、早かったような長かったような。葬儀やら何やらでドタバタしている中で、「セカンドチャンス論」についてちょっと考えてしまったりしたので、今回はそれについて書こうかなと思います。
「セカンドチャンスって何のことじゃ?」と思われる方も多いことと思います。簡単に言えば、生前にイエス様の救いを受けずに亡くなってしまった方が、死後改めて救われる機会があるか否か、という論争のことです。
父はクリスチャンではなく、他の信仰らしい信仰も何も持たずに亡くなりましたから、「親父はこれからどうなるんだろう」と僕は考え込んでしまったわけです。救われて天国に行ってほしい気持ちは息子ですから当然抱きますが、セカンドチャンスは聖書を熟読すれば決して肯定されているわけではありません。
しかしです。第3回で神様の律法は夏休みの宿題のようなものだと書きましたが、この問題についても「そうだ、夏休みの宿題なんだ!」と僕なりの、それなりの、一応の、とりあえずの答えは何とか見いだすことができました。それは、信仰を持たずに亡くなった人は、夏休みの宿題をやらずに9月1日を迎えてしまった学生のようなものだということです。
先生によっては、夏休みの宿題をやらなかったというだけで生徒を落第させる方もいます。しかし、補習や追加課題の提出などの「救済措置」を用意してくださる先生もいます。神様の救いもこれと同じなのではないかと僕は思いました。宿題を提出しなかった生徒を救済するか否かは先生次第、信仰に至らずに亡くなった人たちを救済するか否かは神様次第、ということです。それを僕たちが勝手にあーだ、こーだと推測して論争しても仕方ないことです。
私たちが人生をまだ生きている段階で「セカンドチャンスはある」とか「救済なんてない」と決めつけてしまうのは、夏休み中から学生たちが「宿題なんて出さなくてもきっと救済措置があるよ」とか「救済措置なんてないよ。宿題やらなきゃ落第決定だよ」と勝手に推測しているようなものです。それは先生の決めることで、学生の決めることではありません。そんなことを考えている時間があるなら、少しでも宿題を進めるべきです。
もし救済措置をしてくれる先生でも、「宿題をやらなくても、救済措置があるからね」なんて事前に教えてくれる方はなかなかいません。そんなことを教えたら、宿題をやる学生がいなくなってしまいます。ですから今、まだ人生を生きている僕たちが安易にセカンドチャンスに期待してしまうのは、おかしいこと、避けるべきことなのかと思います。
しかし反対に、「この人は残念だけど、信仰を持たずに亡くなったから、天国に行けないよ」と断言してしまうのも、神様の領域に勝手に踏み込んでしまうことなのかと思います。救われるか否か、それはすべて神様の手におゆだねすべきことです。
でも、やっぱり9月1日になって宿題の終わっていない友達がいたら、「先生、何とかこの友達に救済措置を!」と思いますよね。僕が今、父に対して抱く思いは、まさにそれです。「神様、親父はあなたを信じずに亡くなりましたけど、どうか何とか救っていただけないでしょうか」と、そんなふうに祈るしかありません。その思いや祈りまで否定されてしまうと、今の僕はちょっと身の置き場というか、心の置き場に困って途方に暮れてしまいます。
話題が暗めで、しかもセカンドチャンス論なんて、ちょっと危なっかしい話でごめんなさいね。一信徒の単なる随想ですから、セカンドチャンス論に賛成の先生方も反対の先生方もどうか大目に見てくださいませ。
ちなみに、そんなわけで父はクリスチャンではなかったので、葬儀は仏式で行いました。それで今、わが家にはその流れで仏壇があります。せっかくなので、僕も日々線香をあげたりしています。線香って良い匂いですよね。線香の匂いに包まれながら、父・子・聖霊の三位一体の神に祈りをささげる不思議な光景がわが家では繰り広げられています。だって、母もクリスチャンじゃなくて仏教徒ですから、「仏壇がないと落ち着かない」って言うのですもの。日本でクリスチャンをやるのって、なかなか大変です(笑)。
それではまたいずれ。
主にありて。マロでした。
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