主の御名をあがめます。
ごきげんいかがですか。マロです。週の初めの月曜日、今回はいきなり有名なあの歌の歌詞の引用から始めます。
Imagine there's no heaven
It's easy if you try
No hell below us
Above us only sky
ジョン・レノンの有名な「イマジン」の歌詞の一部です。この曲は一般的には「あらゆる価値観を超えて受け入れられる平和の歌」と解釈されているようです。しかし、僕たちクリスチャンにとっては、捉え方にもよりますが、とても受け入れることのできない恐ろしい歌であるとも言えます。上の歌詞を和訳してみます。
想像してみて。天国なんてないと。
やってみれば簡単だよ。
地面の下の地獄もない。
僕らの上には空があるだけ。
・・・無理です。そんな恐ろしい想像はしたくありません。そんなのは「想像してごらん。ももクロのコンサートに行ったら、ももクロがいなかった、という事態を」と言っているようなものです。天国がないなんて、それはつまり神様がいないということでしょう。クリスチャンにとって世界の主人公は神様であり、イエス様なのです。その神様がいないなんて、クリスチャンにとってそんな世界はまさに、ももクロのいないももクロコンサートみたいなものです。殺伐としてしまいます。コンサート会場が怒号とヤジで満たされますよ!!!
・・・と。まあ、ももクロはともかく。
僕は時々、ミュージシャンとしてこの「イマジン」を弾くように頼まれたりするのですが、そんなわけでお断りすることがあります。すると、よく驚かれます。「どうして。この曲は宗教性がないから、どの宗教でも受け入れられる曲なのに」。時にはちょっと嫌な顔をされて、「こんな平和な歌を受け入れないなんて、キリスト教は排他的だ」とか言われます。ひどい時は、「世界の人々が心を1つにできるようにジョンが作った歌なのに、どうしてそれを受け入れないんだ。君のようなのは世界平和の敵だ」とか。
もちろん、最後のは極端な例です。多くの人は「ああ、そうなんだ。じゃあ、代わりにどの曲にしようか」と受け入れてくれます。が、中にはいます、「寛容性原理主義」みたいな人。「キリスト教は排他的だから良くない。仏教とか神道みたいに寛容になって、いろいろなものを受け入れるべきだ」。いろいろなものを受け入れると言いながら、「いろいろなものを受け入れない者」は受け入れないという自分の矛盾にそういう人は気付いていません。「寛容性のために寛容でない者を排除する」、これは「健康のためなら死ねる」みたいなものです。こういうのをあえて難しい言葉で言うと「寛容性における排他性」と言います。
聖書は、例えば1コリント13章(・・・だったよな、確か)に「愛は寛容です」と書いてありますから、当然に寛容性を肯定しています。そして、旧約だけ読むならともかく、新約まで通読した上での全体の文脈としては排他性を否定しています。「ウソだ。イエスはユダヤ人を攻撃しているではないか」と言われるかもしれません。しかし、イエスは「神の名のもとに他者を裁く者」を弾劾しているのであって、ユダヤ人そのものや神を知らない人を攻撃しているわけではありません。むしろマタイの福音書はユダヤ人への伝道のために書かれている書であり、つまり聖書はユダヤ人を受け入れているのです。しかも、最終的にイエスは「神よ、彼らは自分が何をしているのか分からないのです」と、自分を十字架につけたユダヤ人のために「とりなしの祈り」をしています。敵は敵である。しかし、その敵のためにさえ祈る。これほどの寛容性があるでしょうか。人間の寛容性は排他性を含んでしまいますが、神の寛容性は排他性を含みません。
敵がいない世界はきっと平和でしょう。しかし、それを実現するためには、敵をすべて排除しなければなりません。そういう平和は、敵の存在を否定するしかないのです。だから、とんでもない争いが起こってしまう。当たり前です。お互いがお互いの存在を排除し合うのですから。それなら、敵の存在は敵の存在として認めて、「自分にとってあなたは敵である。しかし、あなたがそこにいることは認めるし、あなたのために祈る」という平和を求めた方がよほど平和的ではないでしょうか。
確かに、中には本当に排他的なクリスチャンもいます。それは困ったクリスチャンです。例えば、「◯◯は罪だ」と言って、周囲にいる、自分とは違う価値観を持った人を攻撃してしまうような人です。しかし、何かを罪だと思うなら、自分がその罪を犯さないようにすればいいだけの話です。「それは罪だから、お前を排除する」というのは、「人が人を裁く」という、イエス様が明確に否定した罪を犯しています。他のどんな罪も、自分が犯さないように気をつけるのはいいことですが、犯してしまう人を責めるのはよくないことです。聖書には明確に「人を裁いてはいけない」と書いてあるのですから。
罪は確かに罪ですが、人間はどうしたって罪を犯してしまいます。「義人はいない。一人もいない」のです。クリスチャンは罪の根絶を求めるのではなく、ただただ罪の赦(ゆる)しを乞うのが本来のあり方だと思います。「あ、あの人が罪を犯しているな」と思ったら、「それはよくない。あの人は悪いやつだ」と攻撃するのではなく、「神様、あの人の罪を赦してください」と祈る。それ以前に、「人の罪を気にしている暇があるなら、自分の罪を気にして、その赦しを乞いなさい」というのが聖書の語ることだと思います。「なぜあなたは兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁(はり)には気がつかないのですか」とどこかに書いてあります(いい加減ですみません。確かマタイのどこかです)。
だから僕も、決してジョン・レノンを責める気はないし、まして「イマジン」を好きで歌う人を責める気もありません。ですが、ノンクリスチャンの皆さま、どうか僕が「イマジン」を弾かないことは認めてください。「世の中が寛容にならないのはキリスト教のせいだ」とか言わないでください。そして、反対にクリスチャンの皆さまも、「イマジン」を歌う人やレノンさんのことを責めないでくださいね。
・・・と、こんなことを言いながら、KISSとか聖飢魔Ⅱとかマリリン・マンソンなんかは好きでよく聴いていたりするんですけどね。それこそクリスチャンは聴いたり弾いたりしちゃダメな音楽だろ!!でも、そのへんの音楽ってまだ「シャレになる」んです。「イマジン」って、平和活動だとかチャリティーライブだとか、ちょっとまじめに思想を伴った場所で歌われるし、シンボリックな意味も出てきちゃったりして「シャレにならない」ことが多いんです。例えば聖飢魔Ⅱを弾いても、「あなたは悪魔崇拝者なんですね」とか本気で思われることはまずないのですが、「イマジン」を弾いてしまうと、「あなたはニューエイジ思想を持っているんですね」と本気で思われてしまう場合があります。そのへんのさじ加減は非常に難しいところで、クリスチャン一人一人が、特に音楽に限らず「表現」に関わるクリスチャンは、おのおの自分なりの線引きをしないといけないのかなと思います。
今日は少し長めでしたが、読んで疲れませんでしたか。
それではまたいずれ。
主にありて。マロでした。
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