主の御名をあがめます。
すっかり夏になりました。マロです。
学生の皆さまは夏休みでしょうか。夏休みの宿題は順調ですか。社会人の方も、お盆休みまでもうすぐですね。そうそう、クリスチャンでもお盆休みは多くの人が休みます。「異教のイベントだから休まない」とか言いません。さてさて、今日もゆるゆるまいります。どうかお付き合いくださいませ。
夏休みの宿題って、終わらないと不安になりますよね。まだ今の時期はそれほどでもないですが、宿題のメドが立たないままに8月も後半になってくると、夏休み明けに先生に怒られる夢を見てしまったりなんかして、だんだん夏休みを楽しめなくなってしまいますよね。9月1日が「恐怖の日」「審判の日」のように思えてきます。
「夏休み」を人生、「9月1日」を人生の終わる日と考えたら、私たちが死を恐れる理由の1つは、「夏休みの宿題」が終わっていないことではないでしょうか。「宿題」とは何でしょう。それはクリスチャンにとっては、神様から与えられた律法です。律法とは、聖書に書いてある「このように生きなさい、これをしてはいけません」という決まりのことです。
この律法について新約聖書には、「私たちは律法から解放されている、しかし律法は一点一画として無効になったわけではない」と書いてあるのですが、難しいですよね。どういうことでしょう。
聖書を読むと、私たちに与えられている律法は膨大な量で、とても守りきれるものではありません。とんでもない量の夏休みの宿題を与えられた学生みたいなものです。1日20時間ずつ毎日やっても終わらない量の宿題と思ってください。「これをやらなきゃ怒られる。やらなきゃ、やらなきゃ。でも終わらない、終わる気配もない。どうしよう」となったら、夏休みは少しも楽しくありません。あるいは、「じゃあ、もうどうせ無理だし、遊びまくってやろう」となって、一切の宿題を放棄してしまうかもしれません。
キリストの十字架により私たちが「罪から解放された」「律法から解放された」というのは、宿題に苦しむ私たちを見かねた担任の先生が、「宿題が終わらなくても先生は怒らないから、夏休みを楽しみなさい。みんなの代わりに僕が校長先生に怒られておくから」と約束してくださったようなものです。これは学生にとっては、とんでもない朗報ではないでしょうか。夏休みがグググッと楽しい日々に変わります。
しかし、先生は続けます。「夏休みの宿題がなくなったわけではないんですよ。やらなきゃダメであることは少しも変わりません」。これが律法が「一点一画として無効になったわけではない」ということです。
律法が守れない私たち人間は、本来ならば死後に裁かれる存在です。しかし、それを憐れんだ担任の先生、すなわちイエス・キリストが、自分が十字架に身代わりにつくことで、私たちが死後に裁かれないようにとりなしてくださいました。これが、私たちクリスチャンの信じる福音「良い知らせ」「GOOD NEWS」です。
やらなくても怒られないけど、やったらやった分だけ先生は喜ぶだろうし、自分のためにもなるし、できるだけやろう。それに、担任の先生が自分たちの代わりに校長先生に怒られてくれているのに、自分たちが何もしないわけにはいかないよね。と、これがクリスチャンに求められる態度なのかなー、と思います。
そして、担任の先生からの連絡がまだ届いていなくて、「宿題が終わらないと怒られる」と思って夏休みを楽しめていないクラスメートには、その「朗報」を少しでも早く伝えてあげたいと思いますよね。それが私たちクリスチャンの行う伝道だということです。
ちなみに僕は、高校1年生の頃の数学の宿題がまだ終わっていません。22年遅れの宿題です。先生、今もお元気でしょうか。宿題の件、そろそろ時効ということでお願いいたします。
それではまたいずれ。
主にありて。マロでした。
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