主の御名をあがめます。マロです。
今日はちょうどクリスマスの日。皆様、どんなクリスマスイブを過ごしたのでしょう。楽しい思い出を作れた人、少し哀しいクリスマスになってしまった人、何もなかった人・・・それぞれ十人十色の聖夜だったことと思います。今日もゆるゆるまいります。よろしければお付き合いください。
さて皆様、クリスマスは誰のための日だと思いますか。・・・と、この質問をすると、「どうせ『クリスマスの主役はサンタじゃなくてイエス様です』とか言うんだろう」と思われてしまいそうです。ええ、確かにそれはそうです。そうなんです。皆様ご存じのように、クリスマスはイエス様の生誕を祝う日です。しかし、それだけではないんです。他にもイエス様と同じくらいに祝福されるべき人がいるんです。
サンタクロース?違います。トナカイ?違います。マリア様?違います。それは、今このコラムを読んでくださっているあなたです。
「そんなわけない!私は昨日も今日も、何も楽しいことなんてなかったし、誰も私を祝福なんてしてくれなかった!」って思う人もいるかもしれません。でも、そうなんです。クリスマスがイエス様に向けられた光であるなら、それはおのずと、あなたに向けられた光でもあるのです。
聖書が私たちに命じることのうち、一番大切なことは、「心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして主を愛し、また隣人をあなた自身のように愛する」(マルコ12:33、新改訳)です。イエス様は私たちにこの戒めを与えてくださり、また同時にご自身もこの戒めを完全に守っておられます。
ここで大切なのは、ただ「神様や隣人を愛せよ」と命じているのではなく、「あなた自身のように」愛しなさい、と命じていることです。それは「神様や隣人を愛するなら、それと同じだけ自分を愛しなさい」ということです。反対に言えば、「自分を愛するなら、それと同じだけ神様や隣人を愛しなさい」ということです。
クリスマスを祝うのと同じように、あなたの誕生日を祝っていますか。クリスマスにイエス様の生誕を喜ぶのと同じように、あなたの誕生日にあなたの誕生を喜んでいますか。イエス様は、ご自身の「誕生日」である今日、きっと私たち一人一人の誕生をも、ご自身のことのように喜んでくださっているはずです。なぜなら、私たちが隣人に親切にしたなら、それはイエス様に親切にしたのと同じであると、聖書に書いてあるからです。すなわち、イエス様は私たちすべての隣人だからです。そして、イエス様は上の戒めを完全に守っておられる方だからです。
ですから、この温かなクリスマスの光は、イエス・キリストに向けられているものであると同時に、あなたに向けられた光でもあるのです。あなたにも、あなたの隣人にも、あらゆる人にあまねく向けられた光なのです。
暗くて、寂しくて、寒くて。そんなクリスマスを過ごしている方はいませんか。僕もそんなクリスマスを経験したことがありました。
もう10年以上も前の話ですが、ボストン留学を終えるにあたり、その年のクリスマスは卒業祝いも兼ねて、僕はガールフレンドとニューヨークのイルミネーションを見ながら贅沢(ぜいたく)なごちそうを食べつつ、きらびやかに過ごす予定でした。僕はきっと世界中の誰よりも幸せなクリスマスを過ごすのだ、と思っていました。
ところが、クリスマス直前になって僕はそのガールフレンドに振られてしまったのでした。ニューヨーク行きはキャンセルになり、僕は引っ越しの準備が終わって家具も何もないボストンのアパートでクリスマスを過ごすことになりました。身を休めるベッドも、くるまる毛布もありません。冷蔵庫もからっぽで、食べるものもありません。台所の戸棚の奥に1つだけ残っていた缶詰のコーンスープが、クリスマスの唯一の食べ物でした。それさえ、鍋もレンジもないので、冷たいまま食べなくてはいけませんでした。
暗くて、寂しくて、寒くて、おまけにひもじくて。きっと僕は世界中の誰よりもみじめなクリスマスを過ごしているのだ、と思った刹那(せつな)、気付かされたんです。イエス様が生まれた馬小屋は、きっとこんなふうに暗くて、寂しくて、寒くて、おまけにひもじくて、という環境だったんだ、と。そう気付いたら、急に冷えきっていた心が温かくなってきました。僕は今、イエス様の生誕を追体験している。神であるイエス様が、僕たちのためにこんな暗くて、寂しくて、寒くて、おまけにひもじい場所に生まれてくださった。神様が僕を愛してくださっていることを、まさに痛感したんです。本当に、痛いほどに感じたんです。この暗さこそ、この寂しさこそ、この寒さこそ、このひもじさこそ、主の愛だと。何もない、誰もいない、そんなこの場所を、神様は祝福してくださっている。それは神様が僕を愛しているからであるし、今僕が神様を愛するなら、僕と神様は相思相愛なのだ、と。世界中の誰よりもみじめなクリスマスは、その気付きによって、世界中の誰よりも幸せなクリスマスになりました。きっとそれは、ニューヨークのきらびやかで贅沢なクリスマスよりも、ずっと幸せなものでした。
つまりそのクリスマスは、僕がイエス様の生誕を祝うだけではなく、イエス様が僕を祝福してくださる日にもなったのでした。神様と僕がお互いに祝福し合う日になったのでした。ガールフレンドとは相思相愛にはなれなかったけれど、イエス様と相思相愛になる日になったのでした。このクリスマスがなかったら、僕は今頃、とうに信仰を捨ててしまっていたかもしれません。そうしたら、ここでこんなコラムを書いて、皆さまと一緒にクリスマスを喜ぶこともできなかったでしょう。このクリスマスがどれほど僕にとっての祝福だったか。それは、どれほど字数を費やしても、ここに書くことができないほどです。
暗くて、寂しくて、寒くて。おまけにひもじくて。そんなクリスマスをもし過ごしている方がいるのなら、むしろそのクリスマスはあなたのための日です。イエス様が「私の生まれた場所を知ってほしい。なぜなら、私はあなたを愛しているから」と言っているのです。そして、同じようにあなたの生まれた場所をイエス様は知っています。その場所を、その時を、私たちがクリスマスを喜ぶように、イエス様は喜んでいます。東方の三博士がイエス様の生まれた場所を探し求めたように、イエス様は僕たちが生まれた場所を探し求めてくださいました。ご自身の生まれた場所を私たちに知ってほしいと願うその方が、反対に私たちの生まれた場所を知りたいと願わないはずがないからです。
そのことを知るならば、もはやクリスマスにはイルミネーションも、ごちそうも、楽しいパーティーも必要ありません。そんなのは、あってもなくても同じです。ただその日がその日であるというそれだけで、他のどの日よりも祝福された、幸せな日になるんです。
明るくて楽しいクリスマスを過ごした人も、
暗くて寂しくて暗くてひもじくて、のクリスマスを過ごした人も
あらゆる人にクリスマスの光が溢(あふ)れますように。
主にありて。マロでした。
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