前回、堀井氏が指摘した「キリスト教は暴力的に日本に入ってきた」ということをクリスチャン・ジュニアという生い立ちから「受け入れる」旨を表明した。つまり、「私たちの愛してやまない絶対的な真理」とキリスト教を特別視するのではなく、あえて相対化して日本文化の中に投げ込んでみようということである。この時点でかなりキリスト教業界的には「危険水域」に立ち入っていることは承知である。しかし、キリスト教界外からのこういうありがたい指摘を無視していて、キリスト教はその真の在り方を変えられない。
まず歴史的、学術的に見て、キリスト教は確かに西洋文化をけん引した。これは間違いない。しかし、さらに精密にその始まりからトレースしていくなら、当然中東の1民族宗教に行きつく。ユダヤ教である。そもそもメシアと噂(うわさ)されたイエスもその直弟子たちも、自分たちを「キリスト教徒」とは思っていなかった。彼らは徹頭徹尾「ユダヤ教徒」であった。それが「ユダヤ教イエス派」というような分岐を始め、やがてギリシャ文化(ヘレニズム)と融合することによって「キリスト教」が誕生する。つまり、キリスト教は純然たるオリジナルを持つものではなく、当時そこに存在したさまざまな文化的諸要素を組み合わせることで生み出されている。
やがてローマ帝国内にこれが浸透し、コンスタンティヌスという稀有な存在に見いだされ、一気にスターダムにのし上がっていく。そして、中世という千年間の「黄金期(とカトリックは捉えている)」を経て、ドイツから新たな流れ(プロテスタント)が分離し、やがてその新しい種を受け取ったスイス、イギリス、オランダなどで新たな形態が生み出されていく。つまり「西洋社会」と一括(くく)りにしても、そこにはさまざまな種類の「キリスト教」が生み出されてきていることを忘れてはならない。
そして17世紀におのおの「品種改良」されたキリスト教は、新天地へと輸出される。そして、新たな「品種」のキリスト教が培養されることとなる。これを森本あんり教授(国際基督教大学教授)は「キリスト教の新たな亜種」と表現している。
これらを見るだけも分かることだが、実は「絶対不変のキリスト教」は、学術的にはこの地上に1度たりとも存在したことはなかったのである。むしろ視点を変えると分かりやすい。新旧66巻にまとめられた「聖書」を教えの基本とする「キリスト教」は、それぞれの時代、土地、文化の中に投げ入れられることで、まず現地の人々を変化させてきた。しかし、同時にその土地の人々によってキリスト教が「品種改良」されてきた、ということでもあるのだ。
つまりキリスト教は、新たな文化に遭遇し、その文化を持つ民族特有のやり方で自然に取り込まれることで、新たな土着化を果たしてきた、と捉えることができるのである。その観点から見るなら、歴史的に言ってどれもが「キリスト教」であるし、どれ1つとして「オリジナルで不変なキリスト教」など存在しない。
堀井氏が「クリスマス」という題材を通して指摘した事柄と同じ現象が、90年代初期に発生した「ゴスペル」ブームにも言える。信仰を持っていない者がどうして「ゴスペル」を歌うのか。そんなゴスペルは本物のゴスペルではない、そう言われ続けて久しい。
多くのキリスト教会はこのような主張を繰り返し、クリスマスと同じく「苦々しい思い」をお互い(クリスチャンとそれ以外の日本人)にまき散らしている。
はっきり申し上げたい。愚かだ。それは不毛な争いでしかない。
日本には「日本的な」クリスマスの祝い方があってはいけないのか。「日本的な」ゴスペルの歌い方があってはいけないのか。それを許したらキリスト教ではなくなるというのか。そんなことはない。2千年間の歴史を生き延びてきたキリスト教は、もっと強くしなやかかつ柔軟である。
そういった意味で、堀井氏の「キリスト教」観は恐ろしくストイックである。普遍的なキリスト教徒を想定し、その彼らによる「きちんとした降誕祭」を求めている。そして、その観点からズレてしまっている日本人の「クリスマス事情」を戦国時代からたどっている。
確かに「西洋的なキリスト教」と東洋的な思想との二項対立的図式は分かりやすい。だが、それではその間に立つ(立たざるを得ない)クリスチャン・ジュニアの存在が見えてこない。彼らの苦悩やその努力がまったく顧みられないことになる。彼らは、そして私は日本人としてクリスマスを楽しみたいと願っている。そして同時に、教会のクリスマスが信者以外の人にとっても面白くて魅力的であってほしいと願ってきた。ゴスペルや演劇、そして最近では福音落語なるエンタメが流行(はや)り出しているが、これはとてもいいことだ。信者と未信者の境がなくなって、皆で楽しめるからだ。
しかしこれは堀井氏だけでなく、彼が指摘する「暴力的なキリスト教」側にも問題があった。
キリスト教会の牧師をしている立場から言わせていただくなら、私は現在の日本人の「クリスマス狂騒」は大いに歓迎である。あまり「本物かどうか」を気にしないでほしい。語弊があることを承知で申し上げるなら、どこにも「唯一完全なキリスト教」は存在しないし、どれもが「本物のキリスト教」である。
日本の「クリスマス」「ゴスペル」の騒ぎっぷりを、どうか「空騒ぎ」と思わないでほしい。なぜなら、これは日本でのみ見受けられる、唯一無二の「日本的なクリスマス」「日本的なゴスペル」の在り方なのだから。一緒に楽しんだ後に、さらにキリスト教を知ろうと願うか、はたまたこの程度でいい、と決めるか、それは個々人が決めたらいいだろう。
こういう帰結に至るということは、やはり私は牧師として、キリスト教を押し付ける側の人間なのだろう。それを自覚しながらも申し上げることがあるとしたら、キリスト教を知らない方々から近寄ってきてくれる「あこがれ」を教会に生み出すことで、信じている者もそうでない(と自覚している)者も、一緒に楽しめる「場(トポス)」を生み出せたら、と本気で願っている。
だからこそ教会側は、1人でも多くの方に魅力的に受け入れてもらえるクリスマスを作り上げようとするのだ。もしもその本質が「信仰心」を持つことであるとしても、それをこちらが押し付けるわけにはいかないからこそ、共に楽しんだ後は「あの方にこの思いが伝わりますように」と神に祈るのだろう。
その中で人は変化するだろうし、そうでない場合もあるだろう。大切なのは、「なんとなくキリスト教的なもの」をどれだけ生み出せるかだと思う。そのままでいい、と思っている方の腕を引っ張ってこちらの陣地に入れるつもりはないし、そんなことはこの個人主義の世の中ではできないだろう。特に心の面においては。しかし、教会でパーティーを行ったり楽しく交わる機会があれば、教義としてのキリスト教を本当に必要としている人にとっては、その新しい世界観に自分の求めていたものを見いだすことだってあるかもしれない。それくらい現代日本は多様化し、またグローバルとインターナショナルが混在する世界に突入しているのだ。
私はそういった意味で、クリスマスは大切にしたい。堀井氏が言う「日本のクリスマス狂騒曲」は大いに歓迎である。Christmas を X'mas と表現するくらい、なんのことない。それで人々の中に「クリスマス」が浸透するなら、たとえ「ざるで水をすくう」ことになったとしても、それで安らぎや平安を教会で得る方が見いだせるなら、それでいい。そして何よりも、楽しく、笑い合える年末を過ごすきっかけを教会が人々に提供できるなら、これに勝る喜びはない。
そう思いつつ、今年のクリスマスも頑張ります!
堀井憲一郎著『愛と狂瀾のメリークリスマス なぜ異教徒の祭典が日本化したのか』
2017年10月18日初版
256ページ
講談社
840円(税別)
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