2017年も暮れに差し掛かり、教会ではクリスマスや年末年始のスケジュール調整(今年は最後の日曜日が大晦日で、次の日が元旦礼拝・・・)が大変な時期だろう。
映画界ではクリスマスにふさわしいハリウッド大作を中心に、人々が「見て楽しむ」映画が次々と拡大公開されている。そんな温かい風潮に冷や水を浴びせるような1本が、12月9日から単館系映画館で公開される。タイトルは「ビジランテ」。意味は「自警団」である。
この一風変わったタイトルの日本映画は、日本人である私たちの心を深く、そして鋭くえぐる。もしあなたがこの世界観に抗いながらも引きずり込まれてしまうなら、「日本人的な罪性」に取り込まれつつあるのかもしれない。そんな恐ろしさを感じさせる、小粒ながらピリッと辛い秀作である。
監督・脚本は、入江悠。2008年に「SRサイタマノラッパー」で彗星(すいせい)のごとく現れてきた若手クリエイターである。今年は藤原竜也主演で「22年目の告白 私が殺人犯です」を撮り、この作品が3週連続1位となったことも記憶に新しい。そんな鬼才が自ら企画を売り込み、そして実現させたのがこの作品である。
物語は、埼玉県のとある地方都市が舞台となる。地元の名士であった父の下で、幼い頃から不条理な暴力に晒されてきた3人の兄弟たち。彼らは母の死をきっかけに、結託して父を殺そうと計画する。結果的に未遂となったこの事件がきっかけで、長男の一郎(大森南朋)は家を飛び出し、30年たった今でも行方不明になっている。
一方、次男の二郎(鈴木浩介)は、気弱な性格ながら市の自警夜回りパトロール隊の団長を務めるなど、父の跡を継いで政治家(市議会議員)の道を歩んでいる。三男の三郎(桐谷健太)は、心根の優しさが災いしてか、デリヘル店の雇われ店長として、やくざがらみのボスにいいように使われている。
富と権力、そして暴力によって横暴の限りを尽した父親が亡くなるところから物語は始まる。彼には莫大(ばくだい)な財産があり、それを子どもたちがどうやって相続するかということが焦点となってくる。そしてこれを見計らったように長男一郎が帰郷する。しかも彼は「あの一番広い土地は俺がもらう」と宣言し、公正証書形式で書かれた遺言証を他の兄弟たちに突きつけた。
ここから巻き起こる兄弟間の亀裂、また彼らの土地を狙って渦巻く謀略の数々・・・。さまざまな思惑が入り乱れる中で、ついに関係する人々の熱気(狂気)は沸点に達し、ある悲劇的な事件が引き起こされてしまう。その事件に対する兄弟たちの三者三様な受け止め方が、見る者の心に少なからず衝撃を与えることになる。
物語に登場するほぼすべての人物は、2つのカテゴリーで仕分けされている。それは「強者」か「弱者」か、である。現代風に言い換えるなら、「勝ち組」と「負け組」であろうか。強者(勝ち組)は徹底して弱者(負け組)から搾取する。強者は、弱者から利権を差し出されても、それに恩義を感じることはない。ドラえもんのジャイアンよろしく「お前のものは俺のもの」とそれを受け取り、悠々と引き揚げていく。
一方、弱者は当然、強者から大切なものを守ろうとする。だから、「ビジランテ(自警団)」となる。辞書によると「己の大切なものを守り抜く集団」がビジランテである。
しかしこの3人は、必死に「ビジランテ」足らんとするのだが、誰一人幸せになっていない。必死の抵抗を続けるが最後には「妥協」してしまう者。かたくなな抵抗の果てに命を落とす者。どうしようもない閉塞(へいそく)感から逃れるため、自暴自棄になってしまう者。
見終わって彼らが何を守ろうとしたのか、そう考えると非常にアイロニカルな結末に背筋が寒くなる。同時に、「これが世の中さ」と製作者側から突きつけられているような気がする。私たちの社会にも、同じように矜持(きょうじ)を抱いて必死にビジランテ化する人はいる。いや、私たちも同じ社会を構成する一因として、「これだけは守りたい」と身を挺(てい)せざるを得ない同じような事柄がきっと思い当たるはずだ。
私たちも彼らと地続きの世界、世知辛い世の中に投げ出されている。夢や希望、幸せを必死に求めながら、それが手に入れられないことが分かると簡単に「死にたい」とネットにつぶやくことができる社会。すると「殺してあげましょう」「一緒に死にましょう」と言い寄ってくる第三者が隣に居合わせる社会・・・。それが私が今日生きるべき「世の中」である。
それに気づくとき、彼らの無様(ぶざま)だが必死な形相を私たちは笑い飛ばすことができようか。
見ていて、聖書の次の言葉が思い浮かんだ。
「わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である。わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える」(出エジプト20章5、6節)
この主人公たちは、家督や自分の家族、友人を外敵から守ろうとしてきた。しかしつまるところ、それは父親の影、目に見えないプレッシャーから自分自身を守ろう(ビジランテになろう)としたのではないか。考えてみれば、彼らが感じている閉塞的な社会とは、彼らの父親が作り上げたものでもある。そう考えるなら、彼らは死してなお迫りくる父の影響を必死に振りほどこうとして破滅していったとも言える。
先ほどの聖書の箇所がすでに数千年前に語っているように、父祖の罪が子孫に及んでいるという現実は、今の社会にも十分説得力を持つ。だから私たちは、この映画を見て、他人事とは思えないし、地続きであることを自覚するからこそ、心をわしづかみにされたような感覚の2時間を過ごさざるを得ない。
一方、後半の「わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には・・・」という言葉に基づいて社会を見るとき、私たちが感じる現実とは異なる色合いが見えてくる。それは「幾世代にもわたって(聖書では千代)守りがある」という約束である。つまりどんな状況に陥ろうとも、そこに必ず脱出の道があり、それを神が示してくれる、または創り出してくれる、という信仰が大きな効果を発揮するということである。
これを宗教として体験的に捉えるか、それとも世の中を解釈する一手段として受け入れるか、その違いはここでは問わない。結果として人が「以前よりも生きやすい社会」であると感じられるなら、聖書の言葉が私たちを生かす、ということには変わりないからである。
もちろん、この映画の中にキリスト教的な要素は皆無である。しかし、物語の閉塞感やダークトーンがリアルなものであればあるほど、実はこの作品は、聖書が語る「神なき世界」を見事に活写していると言えよう。監督や作品自体が非宗教的であるが故に、むしろ宗教的視点からの解釈を容易にしてくれる。
この作品を鑑賞し、キリスト教牧師としてあらためて思うことがある。それは、この世界を「神なき」ものとして捉えるなら、この映画のような結末は十分あり得るということ。しかし、もし私たちの世界観に神という存在が入り込むことを許すなら、その先に開かれる世界は、おそらく異なった色合いを帯びるであろうこと。この2つである。
映画「ビジランテ」は12月9日(土)よりテアトル新宿、テアトル梅田、名古屋センチュリーシネマ、京都シネマ他、全国36館でロードショー予定。
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