全世界待望、と言っても過言ではないだろう。1982年の「ブレードランナー」に35年ぶりに続編が誕生した。しかも第1作で主演したハリソン・フォードが同じ役で登場し、「ラ・ラ・ランド」で多くの女性を魅了したライアン・ゴスリングが主演している。さらに驚きなのは、第1作を監督したリドリー・スコット御大(79歳!)が製作総指揮として続投するというのだから。監督は、「プリズナーズ」「ボーダーライン」「メッセージ」のドゥニ・ヴィルヌーヴ。上映時間は2時間43分。まさに「大作」と言っていい。
本作「ブレードランナー2049」は、前作の独特な世界観をさらに深化させ、さらに現代のデジタル技術をふんだんに用いた作りになっている。それだけでない。物語の核となる人間ドラマが前作以上に私たちの「生命倫理」を刺激するのである。
ご存じのように(と言っていいのは、おそらく40代以上の方向けであろう)、本シリーズの世界観は、「レプリカント」という人造人間によって大きく歪められている。同時に予期せぬ方向へ物語をけん引していく原動力ともなっている。
断っておきたいのは、この「レプリカント」とは、決して「ターミネーター」シリーズのような「機械人間」ではない。頭にチップが入っているわけでも、骨格に当たる部分が金属でできているわけでもない。人間と同じ材質を持ち、彼ら独特のDNAを持っている。それは人間と寸分たがわぬ、という設定である。人間と異なるのは、その製造目的である。
彼らは人間にとって危険な地域(宇宙や原子炉など)で労働するため(時として人間の性のはけ口となるため)、人間よりも「少し」強靭(きょうじん)に作られている。だから肺呼吸するし、食事もする。強烈な殴打を加えられたり銃で撃たれたりすると、人工血液を流しながら絶命する。つまり、肉体的には人間と同じ性能を持つ「使い捨て動物」なのである。
前作では、そのレプリカントが心を持ち、人間に搾取され使い捨てにされている状況に反抗するところから始まる。そんな彼らを処刑する特殊任務を担ったのが「ブレードランナー」だった。1982年当時にしてみると、あまりに話が込み入っていて、しかも「スター・ウォーズ」的な明るさがまったくないため、興行的には大コケしてしまった。しかし、一筋縄でいかない「レプリカントと人間をめぐる物語」に魅かれる映画ファンが続出し、カルト的な人気を30年以上にわたって保持してきた。
本作も同じくレプリカントをめぐる話となっている。しかも前作以上に彼らが人間に近づき、もはや「使い捨て」とは呼べない存在になりつつある。彼らがあまりに「人間らしくなる」ことで、実は人間そのものが「人間とは何か?どんな存在なのか」というアイデンティティーを失っていくことになる。その危険性にどう対処するかが本作のテーマだ。
多少のネタバレを匂わせることになるが、前作で取り上げられた「心を持ち始めたレプリカント」という段階から、彼らはさらに人間へ近づくことになる。問題は進化の方向性だ。これが彼らに与えられたとなると、もはや人間とレプリカントとを区切る境界線がまったくなくなってしまう。そんな事態が近い将来やってくることに震撼した人間たちは、必死でその要因を抹殺しようとする。その一方で、彼らの奇跡的な進化をわがものにして、さらに完璧な「使い捨て動物」を生み出そうとする企業が登場する。両者から狙われる主人公たちが、いろんな危機を回避し、世界の裏側で起こっている出来事の真相をつきとめようとするのが本作最大の見どころとなる。
そして、その真相は前作以上に衝撃的であり、しかもそれを知らされた私たちもまた言葉を失うほどの絶望感に苛まれることになる。
物語の中で、ある人物が聖書の創世記の1節を口にする。それは次のような言葉だ。
「しかし、神はラケルも御心に留め、彼女の願いを聞き入れその胎を開かれたので、ラケルは身ごもって男の子を産んだ。そのときラケルは、『神がわたしの恥をすすいでくださった』と言った」(創世記30:22、23)
ヤコブの奥さんとなったラケルの結婚生活は、姉であるレアとの骨肉の争いであった。ともに子どもがなかったため、後継ぎを生むことが主人であるヤコブに愛されることだと考えた姉妹は、自分たちの女奴隷をヤコブに差し出す。さらには自らの子を宿さないとヤコブの愛は勝ち得ないと思い、神に懐妊を願う。その激しい願いについに神は応じ、2人はそれぞれ実の子を手にする、という物語である。
レプリカントが人間に近づき、ついに人間そのものになる。そんな世界は絵空事のように思える。しかし、ふと考える。もしも神が人間以外にも目を注ぎ、創世記で描かれたような愛を注ぐことがあるとしたら、その時人間はその事態をどう考えるだろうか? そんな空恐ろしいことを空想させる作品となっている。
元来SF映画とは、地球外生物やそれに類する生命体がこの世に現れることを前提としている。それが「E.T.」のように友好的な宇宙人であれ、H・G・ウェルズの『宇宙戦争』のように地球を侵略しようとする宇宙人であれ、そして近未来に人間を支配するようになる猿たち(猿の惑星シリーズ)であれ、彼らはいずれも「他者」として人間の前に現れた。しかしブレードランナーシリーズは、その始まりからこの境界線が曖昧にされている。なぜなら、彼らを人間が意図的に創造したからである。言い換えれば、人間が自らを神とし、創世記を勝手に繰り返すような所業を行った結果を刈り取っているのである。
彼らレプリカントは、人間の「内から」生み出されている。そうなると、従来のキリスト教的世界観では「恵みの言葉」として語られてきた次の聖句が、皮肉にも人間に猜疑心(さいぎしん)を与えるきっかけとなってしまう。
「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された」(創世記1:27)
神学的には「神の像(イマゴ・デイ)」というが、私たち人間が「人間」である所以(ゆえん)は、道具が使えるとか、抽象的な思考ができるといった「所作」によって測られるものではない。根源的にそこに「神と同じ像」が宿っているからだ、となる。そう創世記は、そして聖書は語る。
この「ブレードランナー」というシリーズは、この「神の像」を人間が見落とし、ついに創造の領域に足を踏み入れた世界を描いている。それに対する神からの応答がレプリカントの進化現象である。人間はレプリカントを「製造」しているつもりであった。しかし、彼らはある疑念を抱くことになる。「もしかしたら神は、私たちに与えてくれたもの(神の像)と同じものをあいつら(レプリカント)にも与えたのか?」と。そして、前述のラケルの物語へとつながっていく。
もし私たちが「神の像」をないがしろにするなら、神は自分たち人間に換わる新たな生命体を「創造」することだってあるのではないか? そんなことが神の視点から起こってもおかしくはないのではないか? もしそれらが自分たちよりも強靭で、生命力があるとしたらどうなるか?
そんな危機感をきっかけとして、製作総指揮のリドリー・スコットは壮大なSFドラマを構築しているように思えてならない。なぜなら、同じようなモチーフを彼は「エイリアン」シリーズの最新作(「プロメテウス」「エイリアン・コヴェナント」)でも取り上げているからである。
私たちが「神の像」を見失い、いつしか神になったかのような錯覚に陥ってしまうなら、この映画のようなことが起こるかもしれない。神の像を意識しない人間がもしも他の生命体を創造するなら、その行く先はこの映画のようなディストピアになってしまうのではないか。
前作から35年たって続編が作られたことを考えるなら、この間も神の像を意識しない人間の日々の営みが、1980年代と変わらぬ、いやさらに深刻な事態を引き起こしていることを警告しているとも解釈することができる。
最後に訪れる胸が押しつぶされそうな結末は、どこかカズオ・イシグロの『わたしを離さないで』にも通じる「反転した従順さ」という苦みを想起させる。それは、人間の分をわきまえない横暴さが生み出した悲劇と言えよう。騒動を引き起こした側(人間)には気付かれないまま、人為的に生み出された生命が彼らの創造者の負債を身に受けるという悲劇・・・。
悲しみと憂いと絶望が支配するシーンに、そしてまったく勝ち目のない袋小路に向かって突き進むことしかできない「彼ら」の姿に、私たちは涙することになるだろう。それは35年たったことによって深化(進化ではなく)された涙だと言えよう。
音楽、物語、そして俳優と、どれを取っても今年ナンバー1である。そして、何度も見返したくなる映画である。
■ 映画「ブレードランナー2049」日本版予告編
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