「マイナースイング」などの名曲を残し、ジミ・ヘンドリックス、エリック・クラプトンなど多くのギタリストに影響を与えた天才ギタリストにしてミュージシャン、ジャンゴ・ラインハルトの半生を扱った作品。舞台は1943年、ドイツ占領下のフランス、パリ。ミュージシャンとして絶頂期にあったジャンゴの生きざまを、彼の出自であるジプシーたちの悲哀とともに描き出している。
彼は音楽を通して、虐げられている人々を鼓舞し、ナチスへの抵抗を示すことになる。だが、当初はまったく世界情勢を理解しておらず、周りの心配もどこ吹く風。彼は音楽仲間たちに対し「戦争は自分たち(ジプシー、そしてミュージシャン)には関係ないことだ」と言い放つ始末。彼の音楽に対する情熱と、その手にかかって奏でられるギターの音色は、確かに鬱屈(うっくつ)とした世界情勢とは無関係に、ホールにいる人々を熱狂の渦に巻き込んでいく。
だが、時代は彼を「単なるミュージシャン」に捨て置くことはできなかった。ジャンゴの名声が高まるにつれ、その音楽性をナチスに付け狙われるようになっていく。ドイツでヒトラー総統の前で演奏するという話まで生まれてくるほどになる。彼とその音楽が政治的に利用される危険が次第に高まってくるのであった。
実は、ジャンゴはジプシーの出身で、彼ら居住区を持たない流浪の民は、フランスからもドイツからも迫害の対象となっていた。そのため次第にドイツ勢力がフランス国内へ侵入してくるにつれ、彼の家族や仲間たちが家を追われ、職を失い、ついに収容所へと連行されるようになっていく。もはやジャンゴは戦争に無関心ではいられなくなる。否応なしに戦禍での身の処し方を決めなければならなくなっていくのであった。
ナチスというと、ユダヤ人への迫害が有名だが、本作ではジプシーたちへの理不尽な振る舞いが強調されている。ジプシーのほとんどはミュージシャンとして生計を立てているため、ジャンゴのように一癖も二癖もある彼らを、ナチスは煙たく思っている。特に彼らが奏でる音楽が、自分たちも含めた人々の道徳性や公共性を著しく損なうとドイツ軍は考えていた。そのため、「スイングはダメ」「アップテンポは全体の2割程度」「観客を立ち上がらせてはダメ」などと細かい規制をジャンゴらに強いていた。もっともジャンゴはそれをまったく無視して人々を熱狂させていたのだが・・・。
見ていて思い出したエピソードが2つあった。1つは名作ミュージカル「サウンド・オブ・ミュージック」。音楽のジャンルは異なるが、ドイツ軍に音楽を通して抵抗し、最後はサスペンスタッチで脱出劇を描くところは、とても似ている。ジャンゴがナチスへの唯一の抵抗手段として自分たちの音楽を用いるシーン、そして戦後、迫害されたジプシーたちへのレクイエムを指揮するラストシーンなど、彼の反骨心が音楽によって際立つ場面が随所に盛り込まれている。これらは、「サウンド・オブ・ミュージック」でナチスに抵抗する大佐がオーストリアのために、集まった会衆とともに「エーデルワイス」を歌うシーンを髣髴(ほうふつ)とさせた。
もう1つは、聖書のダビデとサウル王のエピソードである。
「神の霊がサウルを襲うたびに、ダビデが傍らで竪琴(たてごと)を奏でると、サウルは心が安まって気分が良くなり、悪霊は彼を離れた」(サムエル記上16:23)
イスラエルの民が王を求めて神に祈り、民のために神から与えられたのがサウル王である。彼は初めのうちは謙遜な王であったが、次第に横暴になっていく。そして、悪しき霊に悩まされ、時々異常な言動をするようになっていく。その彼をなだめ、普段のサウルへと導いたのが、後継者となっていくダビデの奏でる音楽であった。ダビデは勇士であるとともに、卓越した音楽家でもあったのだ。その彼が弦楽器を弾くことで、サウル王は憑依(ひょうい)した霊から解放され、人間性を取り戻すことになる。
これと同じことが、劇中にジャンゴがギターを演奏するとき、それを聴いている人の中に起こる、と捉えることができる。彼の演奏を聴いた者たちが立ち上がり、ステップを踏み、笑顔で踊り始める。そこにはドイツ人もフランス人も、そしてジプシーも区別がない。まるでダビデがサウルから悪しき霊を取り除いたように、いがみ合っていた彼らの顔から剣が取れ、忘れかけていた人間性を取り戻したかのように、皆笑顔になる。ジャンゴが奏でる音楽が届けられるその空間だけ、まるで魔法にかけられたように、人々が争いを忘れ、1つになっていくのである。
戦争状態は、まるでサウルが悪しき霊に悩まされているときと同じであると捉えるなら、ジャンゴのギターは、サウルの竪琴の役割を果たしていることになる。どちらにも共通していることは、それだけ音楽は人間性を際立たせ、本来の姿を取り戻させる力があるということであろう。
そういった視点でこの映画を見るなら、まさに描き出されているのは音楽の強靭(きょうじん)さである。戦争や迫害、人の苦しみや悲しみを生み出す出来事が確かに現実を支配することがあろう。しかし、それに対して音楽は、その悲惨な状況のただ中にあって、人間性を取り戻させてくれる有効なツールとなるのである。
キリスト教の中には、礼拝音楽、賛美歌、聖歌、ゴスペルなどさまざまな音楽が存在している。これらを隔て、ジャンル分けすることは簡単だ。しかし、それは人間が後天的に切り分けた区分けにすぎない。人はどうしても他者との差異を意識し、それを際立たせようとする。その過程で争いが生じ、あつれきが生まれ、分裂や戦争が発生してしまう。
それを人の業と言ってもいいし、キリスト教的に原罪と言い換えてもいいだろう。これを打破するのがキリストの十字架であり、これを「福音」と呼ぶ。だが、この福音を最も分かりやすく、そして効果的に伝える手段は、決して牧師の説教やクリスチャンとしての日々の研さんだけではない。それを導く潤滑油的な働きとして、やはり音楽の力がそこには必要となってくる。
そして、音楽は単に宗教的な高揚感を与えるだけではない。ジャンゴが映画のラストで亡くなったジプシーたちへのレクイエムを指揮するシーンがある。この前のところで物語は終わっていたはずである。無事にスイスへ逃れたジャンゴは、その後米国へと渡る。そこで映画を閉じるなら、それは音楽家ジャンゴの伝記物語となる。しかし、この映画はそうではない。レクイエムを聴かせるのだ。ここでこの映画を見るすべての人に対し、音楽の強靭な力を見せつけるだけでなく、今度は傷ついた心を癒やすこともできるという包括性をも際立たせている。
「音楽」のポテンシャルが無限であることを際立たせる素晴らしいラストシーンであると言えよう。
映画「永遠のジャンゴ」は11月25日(土)から、ヒューマントラストシネマ有楽町、新宿武蔵野館、テアトル梅田、シネ・リーブル神戸、京都シネマ他で順次公開。
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