9月9日から公開された「散歩する侵略者」は、タイトルやそのスチール写真から連想されるジャンルは、ホラーSF映画であろう。確かにそのような過激なシーンも登場する。しかし、2時間10分の物語にしっかりと向き合うなら、実は壮大な「愛」の物語、しかもキリスト教的視点から愛を高らかに称揚していることが分かる。ここまでストレートに「愛」を謳(うた)いあげる作品は、近年の日本映画にあって稀有(けう)なことである。
どうかタイトルや予告編に騙(だま)されずに、1度ご覧になってほしい。ジャンル映画の体を装いながら、その着地点で見事にこちらの予想を裏切る展開は、心地よい「やられた」感を得ることができるだろう。
監督は黒沢清。日本映画界が世界に誇る数少ない映画監督の中で、彼ほど多岐にわたるジャンルを映像化している者はいない。「黒沢清」の名を一躍有名にしたのは1997年の「CURE」。サイコサスペンスの定石を微妙にズラしながら観客の五感に訴えるその手法は、今でも忘れることができない。2001年の「回路」(これもホラー)でカンヌ映画祭国際批評家連盟賞を受賞したことを皮切りに、「トウキョウソナタ」(2008年)、「岸辺の旅」(2015年)を発表することで、世界的にその名が知れ渡ることになる。後者2作品は家族や夫婦をテーマにした作品であるにもかかわらず、なぜかサスペンスタッチで見る者を決して安心させない(つまり、面白い)作りとなっている。
物語は突然のホラーテイストで幕を開ける。女子高生が金魚すくいをしている。彼女が1匹の金魚を手にして帰宅する。しばらくして、母親らしき人物が慌てて家から飛び出そうとするが、何者かに家の中へ連れ戻される。次の瞬間、一家の惨殺死体が転がっている。その真ん中に、先ほどの女子高生が佇んでいる。その目はうつろで、何かこの世のものとは思えない佇まいであった・・・。
場面は移り変わり、離婚危機を迎えた若夫婦にフォーカスが当たる。夫は3日間失踪していたが、突然保護された。そして、彼は妻にこう語る。「僕は宇宙人だ。我々は地球を侵略しに来たんだ」と。
ここで冒頭のシーンが無ければ、コメディーか心の病を負った人々の物語かと思ってしまうだろう。しかしそうではなく、本気で、そして着実に「彼ら」は地球への侵略の手筈を整えていく。仲間は3人。彼らは先遣隊であり、他の多くの仲間を地球に呼び寄せる働きを担っている。
彼らの侵略の方法がとてもユニークである。それは、地球人の頭の中にある「概念」を奪うというやり方である。例えば、「家族」という概念を地球人から奪うことで、宇宙人である彼らは「地球人の家族観」を手に入れる。その代償として、概念を提供した地球人は「家族」という概念が欠落した状態で生きなければならなくなる・・・。
侵略者たちは、町の中を「散歩」することで、さまざまな人と出会い、その彼らから種々の「概念」を奪う。そうやって侵略の準備をしていくにつれ、「概念」を奪われることで精神的ダメージを受けた人々が溢れていく。これを新型ウイルスによる錯乱状態だと受け止めた政府が、その原因を突き止めるために、特殊部隊をその町に送り込んで来て・・・と、物語は次第に拡大していくのであった。
この不気味な「侵略」がうまくいくかに思えたとき、1つのイレギュラーが発生する。それは若夫婦がかつて結婚式を挙げたというキリスト教会に出向いたときのことである。このシーンは、他の場面に比べると異様に長く、そして印象深いシーンとなっている。ここで夫(宇宙人)は教会の表に貼り出してあったポスターを見て、興味を持つ。
そこには「愛について」と書かれてあったのである。彼はすたすたと中に入っていき、牧師と対面する。そしてこう問いかけた。「愛ってなんですか?」と。牧師はすぐに聖書を開き、有名な第一コリント13章を読み上げる。「愛は寛容であり、親切です・・・」。これを聞いた彼は、普通なら「それもらうよ」と言って指を相手の頭に伸ばすのだが、今回はそうしなかった。ただ「ふーん」と言い残し、その場を去る。実はこれがラストに向けての大きな伏線となる。
宇宙からの侵略者と侵略されることを知らない人間、という構図で始まった物語は、ある一定の着地点を見いだす。そのあたりは実際に映画を見て確かめてもらいたいのだが、実は映画の主題がSFホラーではなく、「愛」のダイナミズムを訴える人間賛歌であったことが分かる。そのきっかけを作ったのが、先ほどの教会のシーンであった。
日本人が「愛」というと、家族や夫婦という身近なところから語り始めることが往々にしてある。そこには宗教性を見いだすことがあまりない。いわゆるヒューマニズムとしての愛である。しかし、本作では日本映画にしては珍しく、愛の原点に「キリスト教的」概念が描かれている。
原作や監督が神学的・聖書的知識を作為的に作品に取り入れたとは考えにくい。しかし、彼らが用いたキリスト教観が肯定的なものであることから敷衍(ふえん)するなら、日本人はキリスト教が語る「愛」に対して、どこか「善なるイメージ」を抱いているのではないか。この若夫婦がキリスト教式の結婚式を挙げているという設定からも、無意識的に日本人の中に浸透していると考えていいだろう。
劇中、牧師が引用したパウロの言葉(第一コリント13章)は、人間の中に存在する愛について語っているわけではない。ここで言及されている「愛」とは、「神から与えられる愛」である。そう分かる者は一部の専門家(神学者、牧師など)だろう。しかし、この前提を踏まえてこのシーンを見るなら、ラストの展開に説得力を与える重要な場面だと言えるだろう。
たとえ、人間が利己心から「愛」を語るとしても、この世に存在する「真実の(キリスト教的な)愛」は、概念としてのそれを打ち破り、人々に実際的な影響を与えることになるのだ、と映画は訴えている。愛には、人の生き方、考え方を変えさせるほどの力があるのだ、とこの映画はストレートに語っている。だから、ラストに若夫婦が見つめ合うその姿に、多くの観客は涙するのだ。
SFホラーのテイストで作品は出来上がっている。しかし、その本質はピュアな「愛の賛歌」である。このあたりの絶妙な「ジャンル映画はずし」は、確かに黒沢清でなければ描ききれないのだろう。舞台(前川知大が率いる「劇団イキウメ」の同名舞台)が原点となった物語であるため、多少哲学的、概念的にならざるを得ないのは仕方ないことである。しかし、これを見事に映像化し、しかも最後にクリスチャニティーに裏打ちされた「愛」の物語に昇華させる手腕は、さすがと言わざるを得ないだろう。
繰り返しになるが、多少のグロいシーンや不気味なトーンを我慢して見続けるなら、最後は思いもよらない感動が押し寄せることになる。
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