スパイダーマンの映画化は、これが3度目となる。1回目はサム・ライミ監督&トビー・マグワイア主演の「スパイダーマン」(2002~2007年)3部作。2回目はマーク・ウェブ監督&アンドリュー・ガーフィールド主演の「アメイジング・スパイダーマン」(2012~2014年)2部作。そして今年公開の「スパイダーマン:ホームカミング」が3度目の映画化となる。ここまで人々に愛され、しかもアメコミが日本ではほとんどヒットしない時代(2012年の「アベンジャーズ」から日本でも少しずつ興行収益を上げ始めた)から、この「クモ男映画」だけは別格で、常にヒットし続けてきていた。
スパイダーマンの魅力とは何か。そして本作「ホームカミング」に至るまで、彼が世界中で愛されてきた理由、特に日本人が彼を気に入った理由、それは実はキリスト教(聖書の言葉)に基づいた結構まっとうなものなのではないだろうか。
ヒーローものの宿命として、どうして彼(または彼女)が特殊能力を手にしたか、ヒーローとなったのかを描くドラマが必要となる。これは観客にそのヒーローを受け入れてもらうために避けては通れない「説明部分」である。前シリーズ「アメージング」、前々シリーズもこの宿命を受け止めた。結果、好きな人は、このプロセスが次第に雰囲気を高めていくことになるが、多くのスパイディ(スパイダーマンの愛称)ファンはスパイダーマンの躍動を見に来ているため、退屈極まりない部分でもあった。
一方、「ホームカミング」では、この過程がまったくカットされている。そもそも新生スパイダーマンは、キャプテン・アメリカ第3弾「シビル・ウォー」からの登場であり、この中でも彼がいかにしてスパイダーマンになったかはまったく説明されないままであった。このあたり、今までのヒーロー映画とは異なる視点で進めていきますよ、という製作者側の力強いメッセージが込められているようだ。
本作のスパイダーマン(本名ピーター・パーカー)は、今までのシリーズ同様、さえない高校生として登場する。そんな彼は、ものすごい力を内に秘め、アイアンマンことトニー・スタークから特殊スーツをプレゼントされるほど期待されている。そして、本人もその期待をよく知っている。
ここからの展開が面白い。彼はスーパー・パワーを持ちながら、メンタルにおいて「若さ故の至らなさ」を露呈する。こんなに自分はデキるヤツなのに、どうして誰も認めてくれないのか。何とかトニー・スタークに認められて1日でも早くアベンジャーズの一員となり、世界を股にかけた活躍をしたい。そんな願望が彼の言動すべてからにじみ出ている。
しかし、当のトニーは「君は近所のヒーローとして活躍していたらいいんだよ」とまったく取り合ってくれない。そんな現状に業を煮やしたピーターは、できる姿をアピールしようとする。「僕は何でもできる」ことを示そうとした彼の軽はずみな行動は、結果とんでもない事態を引き起こしてしまう。
そこでピーターは、初めて己の真の姿を知ることになる。いかに自分が足りないもので、至らない半人前であったか。アイアンマンをはじめアベンジャーズと自分との距離が、想像以上に隔たっていたことを痛感するのである。ピーターは特殊スーツを取りあげられ、トニーとの直接連絡を取る術も失ってしまう。そういった意味では、今回の主人公はまさに「中二病」である。
絶望を味わった彼は、大鷲(おおわし)のような人工的な翼を装着した敵、バルチャーとの死闘を通して、ヒーローとしての真の覚醒を迎える。このあたりの展開は、私たちが従来のヒーロー物語を知っていれば知っているほど、いい意味で裏切られる。すべてを失ったとき、彼は真のヒーローの在り方を自らの手で模索し始めることになる・・・。
本作は、前作までと同様に「ヒーロー誕生の物語」であることは間違いない。しかし、ヒーローが特殊能力をいかにして身につけるかという意味での「誕生」ではなく、特殊能力を持った者がいかにして「ヒーローの心」を見いだすかという「誕生」である。
そして、後者の方が私たちにとってはリアリティーがあるといえる。なぜなら、すべての人が特殊能力を獲得することはできないが、ヒーローとしての心構え、生き方を見いだすことは、私たち凡人にも十分可能な成長物語だからである。
ここでキリスト教との関連に話を移そう。このような成長を最も間近で感じられるのが「教会」という空間である。特に「日本のキリスト教会」という特殊な環境の中で生きてきた筆者のような存在にとって、本作のスパイダーマンが抱く葛藤は、決して他人事とは思えなかった。
キリスト教の「福音」では、私たちが神に選ばれた者としてその救いを享受する存在となったことが宣言される。この宣言を受け入れた者は、それにふさわしく歩むことが求められるし、それを本人も願いながら生きることになる。洗礼を受けて教会員となり、やがて自分が受けた恵みを人々に伝えることを旨とする生き方を選択する。
洗礼を受け、救われた喜びに満ちているときは、自分がスーパーヒーローにでもなったかのような錯覚に陥るときもある。しかし、やがて自分の実力、現実を知るようになり、大いに落ち込むことになる。「認められたいのに認められない」「こんなはずじゃなかった」、そんな思いが入り交じり、葛藤はさらに高められていく・・・。
私は常にこの「中二病」的な葛藤を抱えてきた。また、多くの知り合いがこれと葛藤しているさまを見てきた。牧師になってからも同じである。信徒として牧師の言動を「分析」していただけなら、あれこれと言いたいことが出てくる。「もっと自分ならうまくやれる」「もっと自分はこんなことができるはずだ」、そんなことを思ったものだ。
しかし、いざ牧師になったとき、ピーターがアベンジャーズとの隔たりを実感して落ち込んだように、私は自分の真の実力を目の当たりにして、すべてを失ったかのような感覚に陥ってしまったことを忘れられない。
スパイダーマンが真のヒーローとなるまでの物語は、前2シリーズから踏襲されてきたテーマである。そこで用いられてきた「大いなる力には大いなる責任が伴う」という名言は、今回、さらに具体性を伴い、アイアンマンことトニー・スタークが発した次の言葉に結実された。
それは「近所のヒーローとして活躍せよ」である。真のヒーローは全世界を救うだけではない。ただその相手が苦しみから解放されることが、真のヒーローの心根であるべきだ。ピーターはそのことに最終的に気付かされる。
トニーの言葉(彼がどんな気持ちでこれを語ったかは別問題だが・・・)をしっかりと受け止めることで、ピーター・パーカーは真に「スパイダーマン」となることができた。それは、私たち市井の人々であっても同じ選択をすることができる、という親近感を抱かせる。
だからこそ、スパイダーマンは日本でも人気を博しているのだろう。どのシリーズも、自己犠牲の心を、主人公は痛い体験を通して学んでいく。この成長可能性を感じられるところが、完成された他のスーパーヒーローとは一線を画するところであると筆者は考えている。
映画を見終わり、次の聖書の言葉が浮かんできた。
「ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である」(ルカ16:10)
私たちは誰でも立派になりたいし、成功者になりたいはずだ。しかしだからこそ、そのために本当に必要なことを模索し、苦闘し、そして最後にそれを手にするスパイダーマン物語に、私たちはいつしか自分を重ねていくのであろう。
見終わって「面白かった」だけではない。その後で、例えば教会の仲間たちと「自分たちはどうか」についていろいろ語るのも面白い趣向だと思うが、いかがであろうか。
■ 映画「スパイダーマン:ホームカミング」予告映像
■ 映画「スパイダーマン:ホームカミング」オフィシャルサイト
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