アーサー・ホーランド牧師がインターネットのテレビ番組で発したコメントが、世間を賑わすニュースとなった。そのテーマは「不倫」。アーサー氏と進藤龍也牧師との対談、今回は、私たち自身が罪を犯す危険性がある中でどう生きればいいのか、語り合っていただいた。
――もし私たちが「不倫」に陥りそうになった時は?
進藤:それは、もちろん裁くというよりは、僕は悔い改めを勧めるよ。リセットしましょうよってね。いけないことはいけないから。相手のあることだし。家族もいるんだから。
アーサー:十戒ってさ、それを守れない俺たちの本当の姿を映す鏡のようなものなんだよ。「姦淫するな」「うそをつくな」「父母を敬え」ってあるだろ(出エジプト20章)。あれは、俺たちは罪深い人間で、救いが必要なんだっていうことを示してくれる道しるべなんだよ。俺たちをイエス様に導いてくれるもんなんだよな。神様から俺らへの戒めなんだけど、一生懸命それを守ることを律法学者たちは教えてた。「守るやつは天国行けるけど、守らないやつは地獄に行く」って言ってたんだろ。でも、そういうやつらのところにイエス様は行って、やつらはイエス様にほれて変えられたんだよ。まことと恵みに満ちているのがイエス様なんだよ。でも、まことだけを強調しすぎたら、人間、まことだけでは生きていけないし、誰も守れない。恵みがあるんだよね。
――不倫と同様、若い世代には、結婚前に同棲していたり、性の乱れも問題ですね。
進藤:教会に来て、「私たち同棲してるんです」って悪気もなく言う人もいますよ。でもね、それを「ダメダメ、そんなの絶対ダメ。今すぐ同棲をやめなさい。別れなさい」って言うのは、あまりに乱暴。そこは愛をもって、まことと恵みを教えつつ、関係を作っていかなきゃね。やっぱり、いろんな人の相談を受けるんですよ、僕もアーサー先生も。その時に、もちろんダメなことはダメな理由を話して、悔い改めるように話しますよ。でも、決して裁かない。裁きは僕の仕事ではないから。神様が裁いてくださる。罪人の俺だから、受け止めてあげられる立ち位置を忘れないようにしたい。不倫だろうが、同棲だろうが、驚かないよ。そんなことは散々やってきたからね。
――なぜ日本は「不倫は文化」になってしまっているのでしょう。
進藤:やっぱり、性の乱れの延長じゃないのかな。ポルノも氾濫してるし、それに加えてネットも無法地帯でしょう。
アーサー:それと、ボタンの掛け違いの結婚が日本には多いってこともあるんじゃないかな。要するに、スピリチュアルな感性を持っている人は、神様の導きの中で、神様の方向を向いて仕え合う者として共に生きていくというのが分かるけど、そうじゃないやつらは行き当たりばったりで、「結婚しちゃおう」みたいなノリで結婚しちゃうと、年数がたつうちに「もう愛はなくなった」と。同じ屋根の下に住んでいてもね。そういう状況の中で、愛に飢え渇いている者同士が出会ってしまう。ただ、それはリアリティーのない愛なんだ。でも、「それは罪なんだよ」って言っても、「もうこの人とは一緒にいたくない」「彼とのほうが本当の愛だ」って人もいるんだよね。
進藤:神のもとにない人の結婚って、要するに結婚と同時に離婚のオプションも付いてるんだよ。そうすると、「なんかうまくいかないな」って思った時に、「こっち行ってみようかな」ってなるよね。
――そのような葛藤の中で神様の愛に気付く人もいるのでしょうか。
アーサー:人間って、生きていく中で、御言葉の本当の意味に気付くこともあるからね。俺たちって、罪依存症なんだよ。どんなきれいごと言ってたって、次の瞬間には、それが自分に刺さってくることだってある。だから、自分は罪深い人間で、現実と理想のはざまで葛藤しながら、「信仰とは」ってことを学ばされてる旅をしてるわけだよ。「白か黒か」ではなくて、グレーのところでうごめいているのが人間の魂だってことを忘れちゃいけないよね。「問題起こしたら終わり」じゃなくて、そこからなんだよ。「7×70赦(ゆる)せ」、無限に赦せって聖書にあるだろ(マタイ18:22参照)。だから、「じゃあ、何でもやっちゃえ」ってなるのは違うけどな。
進藤:グレーの部分って、本当に魂の部分だよね。グレーの中で、霊の方向に行ったり、肉の部分に行ったり。
――心のブレーキって、どうやってかけるんでしょう。
進藤:ブレーキって、やっぱり恵みだと思うんだよね。自分がイエス様に救われたっていう喜び。ヤクザは「親分の顔に泥は塗れない」とよく言うけど、今の俺には、「イエス様の顔に泥は塗れない」っていう気持ちだよね。そこがないとダメだよ。僕だって、まだまだエッジ(縁)を歩いてるんだよ。どっちに転んでもおかしくないという。でも、僕が光にとどまっていられるのは、神様に救われた喜びを忘れていないから。高名な牧師でも、大きな罪を犯して辞職することがある。僕も含めて、みんながエッジの上を実は歩いているんだよ。そんな不祥事が報道されることも時にあるけど、その牧師が悔い改めたなら、それこそぜひ報道してもらいたいね。その赦しと回復が福音なんだから!
アーサー:罪を犯してしまう俺らは、神様の憐(あわ)れみの中で生きてるんだよ。「義人は信仰によって生きる」ってあるだろ(ローマ1:17)。信仰の旅なんだよ。
――罪の中にいる私たちが、信仰によって罪から遠ざかることができるのでしょうか。
アーサー:あの姦淫の女にイエス様は「もう罪を犯さないように」と告げて別れたんだよな(ヨハネ8:11)。これは大きなメッセージだよ。イエス様は「罪を犯さないように」って言ったんだよ。そのあと彼女が完璧に罪を犯さなかったのかっていうのは、聖書に書いてないだろ。これは俺らへ託された部分だよ。「罪を犯さないために、どこへ向いてればいいのか」っていう課題を与えてるんだよ。
進藤:イエス様を信じれば天国に行ける。でも人間は、「神様、ごめんなさい」って罪を悔い改めながら生きていくのか、「結局、俺は罪人だから、罪を犯すんだ」って開き直って生きるのか。大違い!「なんで薬物がやめられないんだろう」。「どうしてこいつはギャンブルをやめられないんだろう」。それらを一つ一つを考えていくと、理由や原因があるんだよ。それが分かれば、治療なり指導なりしながら、神様と向き合えるように導いていってやればいいんじゃないかと思うよ。
アーサー:神の憐れみっていうのは、みんなに注がれていて、それに気付くか気付かないかなんだよ。イエス様は、俺たちに「地の塩、世の光になって輝け」って言われてるんだよ(マタイ5:13~16)。不完全な俺らが、なぜイエス様と出会ったか。俺らは解放された罪人。だから、「なんで自分は解放されていないのか」って、人に思わせればいいんだよな。「解放されるためにはイエス様しかないんだよ」って。俺は聖なる人じゃないからね。
進藤:バプテスマのヨハネから洗礼を受けた人々は、そのあと、罪を犯さないで生きてきたかっていったら、おそらくそうじゃないと思う。そのたびに悔い改めながら生きてきたんじゃないかな。
アーサー:俺や進藤は、「罪人の中の罪人」が逃れる場なんだよな(笑)。イエス様はね、姦淫の女に「もう罪を犯さないように」って言っておきながら、十字架にかけられた時に「彼らの罪をお赦しください」って祈るんだよ(ルカ23:34)。イエス様って、「罪を犯すな」って言っておきながら、「罪を犯した者のケアは俺がするよ」って方なんだよ。だから、イエス様はすごいんだよ。この2つの言葉の中で人間の生活って行われてるんじゃないかな。すごいよな。魂のロックンロールだよ。この両極端の言葉の中で、俺たちはどう生きるんだって問われてるんだよ。
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