アーサー・ホーランド牧師がインターネットのテレビ番組で発したコメントが、世間を賑わすニュースとなった。そのテーマは「不倫」。アーサー氏から「俺の大事なブラザー」と呼ばれている進藤龍也牧師との対談で、アーサー氏自身にその発言の真意を語ってもらった。
ことの発端は、週刊誌やテレビで繰り返し取り上げられる不倫のニュース。タレントのベッキーによる「ゲス不倫」をはじめ、政治家の山尾志桜里(しおり)、女優の斉藤由貴など。そのたびに世間からの非難が集中する「炎上」傾向が最近は強い。
配偶者を裏切って別の異性と関係を持つことは、道徳的に赦(ゆる)されるものではない。聖書でも、十戒に「姦淫(かんいん)してはならない」とある(出エジプト20:14)。そればかりかキリストは、「みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既(すで)に心の中でその女を犯したのである」(マタイ5:28)とまで言い切るのだ。
ただ聖書は、不倫を禁じているだけではない。福音書の中に有名なエピソードがある。姦通(かんつう)の現場で捕らえられた女を前にイエスは、「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」(ヨハネ8:7)と語った。
アーサー氏が9月8日、AbemaTV の「けやきヒル’s NEWS」で、山尾議員のダブル不倫疑惑を受けて、この聖書の箇所を紹介し、自身の見解を述べた。
「まったく罪がない人などいないことを考えてほしい。本来、不倫を批判できるのは、不倫をした人の身内だけ。傷ついている家族や子どものことを考えると、不倫問題こそ丁寧に報道してほしい」
ところが、そのコメントに対してまた視聴者から、「自分は不倫はおろか恋愛さえしたことがないから、石臼を投げつけてやる」などと激しい批判が集中したのだ。
――不倫騒動のコメントから、ずいぶん炎上してしまいましたね。
アーサー:コメンテーターとして毎週金曜日に出させてもらってるけど、簡潔に短い言葉で伝えなきゃいけない。それってすごく難しいっていうのはあるよね。でも、とかく不倫問題って、みんな面白いからか、ものすごい勢いでたたくだろ。俺は一人一人に聞きたいね、「お前はどうなんだ?」って。それは「お前は不倫したことあるか」っていう意味じゃない。イエス様の俺たちへの忠告は、「頭の中で想像しただけでも罪だよ」ってことだろ。見える部分だけで人は裁くけど、心の中はどうなんだよ。「見えない部分の自分を見てみると、そういう人たちを裁けない自分がいるっていうことを知れ」っていう聖書のメッセージがあることを伝えたかったんだよな。
――それにしても、不倫たたきは根が深いですよね。
進藤:ニコニコ動画のライブ中継中に、チャットみたいに、ものすごいえげつない言葉を書き込む人っているじゃないですか。「消えろ!」とか「お前なんかいなくなっちゃえ!」みたいな。あれと一緒だと思うんだよ。
アーサー:不倫がいいって言ってるんじゃ決してないけど、その最も個人的な部分を明るみに出して、みんなで袋だたきにするって、お前はどれほどの者なんだって思うよね。
進藤:今はそういう時代なんだろうね。みんな何らかのストレスやネガティブな思いを抱えて生きてるんだけど、その掃きだめみたいになっちゃってるのがネットのコメントだったりするのかな。
アーサー:そういう場所で、俺たちはタフにクールに生きるしかないんだよね。
――日本特有の問題なのでしょうか。
アーサー:1つ言えるのは、日本ほど不倫の問題が表面化してたたかれる国はないってことだよな。2、3年前までは、不倫に関する放送時間が年間30時間以下だったのに、昨年は約6倍の170時間を超えているっていう話もある。件数自体も増えているのかもしれないけど、それだけ不倫ネタは数字(視聴率)が取れるってことなんだと思うよ。特にここ2年くらいね。急激に不倫を扱うニュースが増えているみたいだな。
進藤:今、旬なのかな(笑)。
アーサー:この問題は丁寧に扱わなきゃいけない問題なんだよな。その人には、家族がいて、子どもがいるわけだろ。名前を知られて、子どもが学校に行っているなら、いじめに遭う可能性だってある。今、日本社会がやっていることは、手術台に寝かせて、おなかを無理やり開いて、後は処置もしないで、おなかを開いたまま寝かせてるのと同じこと。
――そこに教会や牧師が何か介入できるとすれば?
アーサー:俺たちの仕事って、そこからフォローすることなんだよな。もっと丁寧に扱わなきゃ。話を聞いて、忠告して、悔い改めを促して、相手がいたら、その相手の話も聞いてって、丁寧に扱うよ。キリスト教界って、そういう人たちを切り捨てがちだけど、そうじゃない。生身の人間なんだから、クリスチャンだろうが、ノンクリスチャンだろうが、いろいろな悩みを抱えて生きてる。それをフォローしてやるのが俺たちの仕事なんだよな。
――現代社会では問題を抱えている人がたくさんいます。その中で牧師としてコメントする立場は難しいですね。
アーサー:俺たちはさ、「グッドニュース」を伝える者なんだよ。でも、彼らがコメントを求めてくることって、「バッドニュース」なんだよな。それに対して、俺がどう思っているかを簡潔にコメントしなきゃいけない。だからといって、彼らに「十字架」だの「救い」だのって言ったところで、伝わらない時がある。そのエッセンスを、御言葉をダイレクトに語るのではなくて、その本質を現代に置き換えて語ることが必要なんだよな。
進藤:僕も学校や刑務所のような場で語る時は、アーサー先生と同じく、かみ砕いて、でも御言葉をしっかり伝えられるように気を付けている。だって、文化も背景も違う相手に話さなきゃいけないんだからね。でも、真理は1つだから。キリストの真理は変わらないから。
アーサー:神の愛は絶対だからね。神の憐(あわ)れみと恵みは何よりも深いから。無限だろ。広くて、深くて、高いんだよ。御言葉っていうのは、クリスチャンだけのものじゃない。世界に住んでいるすべての人たちのためのものなんだよ。俺はジーザスのスピリットでいつも語ってる。スピリットは、言葉に乗って人の心に働くって信じてる。
――裁きは神様にお任せするということですね。
進藤:そう。裁きは神様のものだからね。裁く自分がすでに裁かれていると思うんだよ。真理を知っているはずのクリスチャンでも、ネットで平気で誹謗(ひぼう)中傷したりするからね。俺もだいぶやられて、本当にタフになったよ。
アーサー:自分が罪人だと認めると、救いが自分にとってどれだけの意味があるか、分かると思うんだよ。憐れみと恵みが分かったら、人と争うんじゃなくて、平和に生きたほうがいい。憎むんじゃなくて、愛するほうがいいって分かると思う。恨むんじゃなくて、赦したほうがいいと。そっちにエネルギーを使ったほうが、よっぽど自分にとってプラスなんだって分かるんだよ。だから、ネットでも何でも、「ああだ、こうだ」と論争するやつって、自分の中にも平安がないんじゃないかなって思うね。
――ネットで誹謗中傷する人たちにも神様の愛が伝わるといいですね。
アーサー:俺の原点は、キリストが俺を捉えてくれたってことなんだよ。俺が頑張っていい子にしてたからキリストがこっちを向いてくれたんじゃないんだよな。どうしようもない俺をキリストがつかんでくれて、今も共にいてくれるってことが原点。この恵みによって俺は救われた。俺はそれを信じる。信仰によって。行いじゃないんだよ。
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