私だけではないと思いますが、随分前から多くのクリスチャンや牧師たちの中で自己実現という言葉を耳にします。牧師たちの中には、「教会は牧師にとって自己実現の場である」と言う人さえ存在します。驚くべき言葉です。このような理解は、教会の私物化ということに他なりません。
そうかと思えば、クリスチャンの方々の中に人生の目的は「自己実現にある」とする人たちがいます。彼らは、「イエス様は私の自己実現を成し遂げてくださる」と言うのです。これも近年よく耳にしますが、「私は『イエス様を信じたら、あなたの願う仕事、結婚などが実現します』という説教の言葉を聞いて洗礼を受けた」と言うのです。これも驚くべき言葉です。
イエス様が私の自己実現のために存在するなら、「イエス様は私の欲求や願望を満たしてくださる方」ということになってしまいます。そのため、彼らは自分の欲求や願望を満たしてくれないと感じるやいなや、教会から離れてしまいます。
このような現象は、自己実現という一般社会の価値観が教会の中に入り込んでいることを意味するのではないでしょうか。そのため、多くの牧師たちやクリスチャンの信仰の中に自己実現という価値観が入り、巣を作っていると感じます。
自己実現といえば、アブラハム・マズローです。アブラハム・マズローは、人間性心理学の代表的な人です。彼が「欲求五段階説」(欲求の階層性理論)を提唱したことは有名な話です。この説は、ピラミッド型の図で、人間の欲求を5階層に分けた自己実現理論です。しかも、自己実現に向かって、人間が成長する過程を表したものとします。
この欲求五段階説には、賛否両論があります。その中で特に肯定的な意見では、人間の動機付けの理論を発展させたという点で評価されています。そのため、マーケティング業界などではよく研修などで用いられ、「欲求五段階説」の学びを通して自己実現に至るように叱咤(しった)激励を受けると聞いています。
インターネットで「欲求五段階説」について検索してみると「全世界の全人類、様々な価値観を有した人間が存在すると思います。この法則を知っているのと、知らないのでは、人生の成功と失敗を分けることにもつながります。ぜひこの法則を知り、プライベートでも、ビジネスでも当たり前のように頭の中で自由に動かしアウトプットできるレベルに引き上げましょう」という文章を見つけました。
多くの人々にとって、自己実現こそ「人生の目的であり、人生の成功者となることだ」という価値観が染みついてしまったのかもしれません。また、自己実現こそが人生の成功者と敗北者を分ける基準にもなっているようです。
そこで、マズローの「欲求五段階説」を簡単に検討してみましょう。マズローによれば、階層の一番下にある第1層の基本的欲求(衣食、睡眠など体を維持するために不可欠な要素)が満たされないと、第2層の安全欲求が生じないとしました。それは、基本的欲求が満たされると、危険を犯してまで食べ物などを求めることをせず、安全を求めるようになるというものです。
そして、第1層と第2層が満たされて、初めて第3層である社会的欲求「所属、愛情欲求」が生じるとします。この第3層の欲求は、自分を受容し温かく迎えてくれる共同体を心理的に求める欲求のことです。そして、自分が所属する共同体の中で他者から何らかの「高い評価を受けたい」「尊敬されたい」「名誉を得たい」などの欲求が生じるようになるというものです。
こうして、第4層の「承認・自尊欲求」の段階に入るのだと理解します。人間は、このような過程を経て、最も高次元の第5層である「自己実現」(ありのままの自分)に至るというものです。
アメリカの心理学協会の会長は、自己満足に重点を置いた心の健康の在り方や基準に疑問を投げ掛けています。自己満足に重点を置いた結果、自分の欲しい物が手に入れば葛藤から解放され自由になると思い込んだ個人主義(自己実現)を助長してしまった、というのです。この指摘は、「欲求五段階説」に対する批判です。
以上のことを踏まえて、聖書的な概念の視点に立って検討してみましょう。マズローの言う第1層と第2層は基本的欲求で、第3層と第4層は人格的欲求(社会的欲求を人格的欲求と言い換えた)で愛と意義の欲求のことです。これらの欲求が満たされて、「自己実現」(第5層)に至るというものでした。
このような理解の本質的な特徴は、「低次の」基本的欲求が満たされないと、「高次の」欲求を満たすための動機付けが起こらないということです。つまり、マズローの第1層から第4層までの4つの欲求は、本質的に自己中心的な内容ということができます。
なぜなら、人間は神の似姿に造られた存在であり、有限な人格的存在でもあります。それだけ、人間は自分の欲求を満たすために、自分の外に頼るしかない依存的な存在ということです。その意味で人間は、受けることが中心となっているという点で自己中心的だということです。それは、自分の内にある何らかの欠乏や喪失しているものを補おうとする行動だからです。聖書は何と言っているでしょうか。
マタイの福音6章33節に、「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます」とあります。また、ピリピ人への手紙4章19節に、「また、私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます」とあります。
神様は、私たちの必要を、責任をもって満たしてくださる方です。だから、私たちは神様の国と神様との関係を第一に求めて行動するのです。
マズローの理解に沿って考えるなら、神様は私たちにとって必要な基本的欲求や安全(愛)という欲求をさまざまな方法をもって満たしてくださるということです。また、パウロはエペソ人への手紙2章10節で、「私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです」と言っています。
神様が、「私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださった」と言います。神様は、私の人生の意義や目的を備え与えてくださっているということです。神様の方で人格的欲求(社会的欲求)を満たしてくださるというのですから、驚く恵みです。
こうして、クリスチャンは自分の欲求を満たすために、第1層から第4層を自己中心的に求める必要から解放されるのです。そして、聖書が求める自己実現に至るのです。聖書が求める自己実現とは、受けるより与えるという他者中心的なものです。それは、他者の益のために自分が受けたものを他者に与えるところに、聖書的な自己実現があるということに他なりません。それは、イエス様が弟子たちの足を洗って仕えて(ディアコニア)くださったようにです。
クリスチャンにとって自己実現は、人格を有している神様との人格的交わりに根拠があります。私たちは、神様との人格的な交わりにおいてのみ自己実現が可能になり、バランスの取れた存在となるのです。そして、クリスチャンは、キリストにあって成長した者とされ、個々に与えられている霊の賜物を用いて、人々に仕える者と変えられていきます。
神様は、私たちに必要なものをすべて満たしてくださいます。しかし、私たちの思い通りに満たしてくださるということではありません。それは、何を意味するでしょうか。クリスチャンは、欠乏を満たすために行動するのではないということです。クリスチャンは、神様からさまざまな必要が満たされて行動する存在ということです。
従って、牧師にとって教会が自己実現の場だとする理解は、聖書の概念に反します。牧師にとって自己実現は、神と教会と人々に仕えるところにあるのです。また、人生の目的は自己実現だとするクリスチャンの生き方も聖書の概念に反します。なぜなら、私たちの人生の目的は、私の必要を備え満たしてくださった神様の素晴らしさを現すことだからです。
ですから、キリストに結びついた者たちの人生にとって、人生の成功も失敗もありません。イザヤはイザヤ書43章7節で、「わたしの名で呼ばれるすべての者は、わたしの栄光のために、わたしがこれを創造し、これを形造り、これを造った」と言っています。
神様は、「私は、あなたのゆえに恥を決してかかない」と言っているのです。世の基準を教会の中に吟味せず持ち込んでしまうと、教会や人格や信仰を傷つけてしまいます。福音が福音まがいになってしまいます。十分に吟味してほしいものです。そして、私たちにとって健全な自己実現は主がしてくださるのです。
補足:自己実現という言葉は、マズローの原書によると Self-Actualization です。この Actualization は「実際のものになること」です。それは、人間本来の自然で多様な姿である「ありのまま」の状態を体現し続けることを意味しています。それを自己実現と翻訳したところから誤解が生じたとする指摘があります。しかし、聖書のメッセージは、神様に帰ったとき、恵みによって「実際のものになる」というものです。ですから、自己実現という言葉は注意深く扱う必要があります。
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