昔も今も共通している、クリスチャンの悩みの1つが奉仕と愛のバーンアウト(燃え尽き症候群)です。昔よりも現代の方が多いように感じます。多くのクリスチャンの方々の話に耳を傾けていると、次のように感じることが少なくありません。それは、「自分の心の底にある素直な心の声に蓋(ふた)をして、自己破壊の道に向かっている」ということです。それは、奉仕という自己破壊の道であり、愛という自己破壊の道です。
ある人は、一生懸命に奉仕をします。他の方々からは信仰熱心で忠実な人と目には映ります。しかし、当の本人は無理して奉仕していることが多いのが現実です。その結果、時間の経過とともに心身、そして霊的に疲弊してしまいます。
また、1人のクリスチャンとして隣人を愛することが証しだと、自己犠牲的に人と関わろうとする人たちも後を絶ちません。自分の本当の心の声に蓋をして隣人愛に生きようと努力している人が多いことに気付きます。
これらの人たちは、心に葛藤を感じながら格闘しています。彼らは非常に真面目な方々です。彼らは、与えられた奉仕などを通して忠実に仕えようとしています。しかし、彼らの姿はどこか無理をしているように感じます。なぜなら、彼らの動機が自分の居場所を見つけるためであったり、自分の価値を高めるためであったりすることが少なくないからです。そればかりか、「クリスチャンはこうあるべき」という枠組みに捉えられていることも多々あります。それだけ、どこか自分に無理を強いて教会生活をしているということではないでしょうか。
そんな彼らが、自分の素直な心の声に耳を傾け聴き始めると、泣き崩れる人が少なくありません。そして、「先生。やっと楽になりました。やっと本当のことが言えました」と告白する言葉を何度も聞きました。また、「恵みということを勘違いしていました。私はすでに恵みに預かっていること(一方的恩寵[おんちょう])に気が付きました」と。
今まで牧師は、奉仕に、また、愛することに疲れている人に対してどのような扱いをしてきたのでしょうか。
牧師たちの対応は、「祈りなさい」「献(ささ)げなさい」「砕かれなさい」「聖化の恵みをつかみなさい」などの言葉で指導してきたのではないでしょうか。私自身もそのような扱いを受けた経験が何度もあります。また、私自身かつて同じような指導をした時代もありました。今は「何と人々の信仰と心を傷つけてきたものか」と、悔い改めとともに反省しています。
私は、さまざまな学びやトレーニングを通して「祈りなさい」「献げなさい」「砕かれなさい」「聖化の恵みをつかみなさい」という言葉は、かえって人を抑圧し駄目にしてしまう言葉だということを知りました。なぜなら、それぞれが抱えている、本当の問題や課題が、ますます抑圧され、隠されてしまうからです。その結果、モヤモヤした感情を抱きながらクリスチャンとして、生きづらさを感じてしまうことにつながっていることが少なくないということです。
大切なことは、「祈りなさい」「献げなさい」「砕かれなさい」「聖化の恵みをつかみなさい」は適切に用いないと弊害を生じさせてしまうということです。
さて、教会生活の中で、心に葛藤を感じながら自己犠牲的にさまざまな奉仕を担っている方々の動機の傾向性について、以下のように整理することができます(もちろん、すべての人ではありません)。
1. 私は価値ある人間として自尊心を保ちたい。
2. 私は価値ある人間として重要な存在だと承認されたい。
3. 私は人々から価値のない人間と思われたくない。
4. 私は他者にとって意義のある人間であることを承認されたい。
5. 私は愛される価値のある人間だと承認されたい。
6. 私は能力のある人間として承認されたい。特に、本人にとって重要だと思われる奉仕を希望することがある。
7. 私は教会の中に安全と居場所を確保したい。あるいは、見つけたい。
これらの動機は、無意識の流れです。このような無意識の流れには2つの基本的欲求があることが分かります。その最も大切な基本的欲求とは、「人間として価値ある存在であると承認されたい」ということです。なぜなら、この承認のあるところで、自分の存在意義と、変わることのない受容という安全を手にすることができるからです。
人類最初の男性はアダムであり、女性はエバです。創世記2章15~18節には「神である主は人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた。神である主は人に命じて仰せられた。『あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。』神である主は仰せられた。『人が、ひとりでいるのは良くない。わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう』」とあります。
特に、注目したいのは「神である主は人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた」という言葉です。神様は、アダムに「農園を耕し管理する」という仕事を与え、人生の意義(目的、仕事の喜びと重要性など)を与えています。アダムは堕落以前、神様から人生の意義が与えられていた、ということです。そのため、アダムは充実した生活をしていたのでしょう。
別な言い方をすると、神様は人類の最初から人間に存在価値と存在の理由を設定しておられたということに他ならないのです。この基本的欲求の満足は、人として存在理由と存在価値があるという自覚から生じます。その自覚の前提は、他者から価値ある人間として無条件で愛され受容されていることと表裏一体です。
それから、「神である主は人に命じて仰せられた。『あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ」とあります。神様は、「善悪の知識の木からは取って食べてはならない」と神と人間の境界線を設定されたのです。
その後、神様はアダムのふさわしい助け手としてエバを創造されました。創世記2章22、23節に「神である主は、人から取ったあばら骨をひとりの女に造り上げ、その女を人のところに連れて来られた。人は言った。『これこそ、今や、私の骨からの骨、私の肉からの肉。これを女と名づけよう。これは男から取られたのだから』」とあります。
アダムは、「これこそ、今や、私からの骨、私の肉からの肉」と告白しています。これはアダムの無条件の愛の告白です。また、変わることのない受容の言葉です。エバは、このアダムの無条件の愛と変わらない受容によって安全が保証されたのです。
これらのことから、人間にとって必要な2つの基本的欲求は、人類の初めから神様によって与えられていたということです。ですから、この2つの基本的欲求は、人類最初の人間アダムとエバの属性であったということもできます。従って、アダムの子孫である私たちは、例外なく同じ属性を保持しているということです。
ところが、神と人間の境界線を踏み越え、人間が、善悪の木の実を取って食べ(創世記3章6節)たのです。その罪の故に神との関係が断絶した結果、神様から与えられていた人生の意義と安全(基本的欲求)を失い、土地が呪われてしまいました。そのため、男は一生苦しんで食を得なければならなくなり(創世記3章17節)、女は苦しんで子を産まなければならなくなった(創世記3章16節)のです。
人間は、堕落前と堕落後と何か変わったのでしょうか。人間は堕落以前、神様から人生の意義と安全が与えられていました。ところが、堕落後は人生の意義と安全を求めるようになったのです。そのため、堕落後の人間は、人生の意義を求め、自己の存在理由や存在価値を確立しようとします。男は、仕事などを通して人生の意義(存在理由、存在価値など)を求めるのです。女は、愛されることによって生活の安全を求め、自己の存在理由や存在価値を確立しようとします。
このように、罪が人類に入り込んだために、神様から与えられていたものを求める必要が生じてしまったのです。そのため、男性は自分の存在価値や存在理由を感じるための主要な道筋として「意義」を求めるようになりました。女性の主要な道筋は「安全」となったのです。それだけ、人生の「意義」と「安全」が脅かされると、存在価値や存在理由を喪失することにつながるということです。
ヨハネの福音書15章16節に「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです」とあります。
特に、「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです」に注目していただきたい。
神様が、一方的に私たちを「選び」「任命した」とあります。もはや、私たちは自分の存在理由や存在価値を求める必要がないということです。神様の一方的な選びによって、存在理由や存在価値が与えられているということなのです。私たちは、主の選びによってさまざまな学業や職業などに召されているのです。
教会のそれぞれの奉仕も同様です。私たちは、主の選びによって「意義」と「安全」が満たされているということなのです。それは、堕落によって、神様から与えられていた存在価値、存在理由を求める者となり、神様との回復によって、再び与えられる存在となったということに他ならないということです。
私たちにできることは、神の選びを受け取ることではないでしょうか。神の選びを受け取るところに、存在価値や存在理由を自覚し、生きることができるということです。だから、この私に対する神の選びを受け取りましょう。
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