ずいぶん前から「最近は昔のように福音が届かなくなった」という言葉をよく耳にします。そのため、多くの牧師や教会は「なぜだろう」と悶々(もんもん)とする日々を過ごしています。
そればかりではありません。近年、人を信頼したり愛情を受け止めたり、深めたりすることが苦手な人が多くなっています。私たちの生活が便利になればなるほど、大切なものを失ってしまったように思えてなりません。
ヴォルヴィという人は「愛着」(attachment)という言葉を最初に使った人です。愛着は、養育者との出会いから始まります。それは、赤ちゃんと養育者がどのような出会いをしたかということです。その在り方が、愛着形成に大きな影響を与えます。
赤ちゃんは未熟な状態で誕生し、無防備です。そのため、本能的に誰が自分を守ってくれるのかを感じとります。そして、身近な大人との情緒的な結びつきを形成します。つまり、愛着は、身近な大人との情緒的な結びつきを形成することによって、心と体の安全を得るための「本能的な生きる知恵」だと考えられています。
愛着は、生まれながら身につけているものではありません。乳幼児期に非言語的(言葉を使わないコミュニケーション)が継続的に、親密に行われていることが大切になります。赤ちゃんは、養育者から継続的なお世話を受けることによって安心と安全を感じとります。そして、養育者との愛着関係を形成していくのです。
ヴォルヴィは愛着について、生まれてから3歳までが基礎となると言っています。赤ちゃんが0歳~3カ月の頃は、誰に対してもニコッとほほ笑み反応します。ところが、8カ月くらいになると、自分と関わっている人と他者とを区別するようになってきます。これが、「人見知り」です。これを「8カ月不安」と言います。この「人見知り」こそ、よく愛着が形成されているということなのです。
こうして、8カ月~2歳になると、人見知りしていた時期よりも、人見知りが少なくなってきます。そして、他者に対してほほ笑むようになります。この姿は「愛着の対象が広がっている」と理解します。これは、基本的に愛着が形成されているからこその姿です。
おおよそ3歳ごろになると、子どもたちは保育園や幼稚園に行くようになります。初めの頃、子どもたちはグズグズしますが、やがて養育者が近くにいなくても安心して過ごせるようになります。
なぜなら、子どもは養育者と情緒的にしっかりとつながり、愛着関係が形成されているからです。また、養育者との愛着が形成さている子どもは、養育者の気持ちや感情に気づき、それを受け入れられるようにもなります。
ただし、この愛着が形成されていない場合、愛着障害が起こります。愛着障害とは、乳幼児期に養育者や主にお世話する人との愛着関係が形成されなかったことによって起こる障害のことです。
愛着障害が起こる原因の著しいものは、虐待(身体的虐待、心理的虐待、ネグレクト、性的虐待)です。愛着障害がある場合、衝動性の高さ、物事への過敏さ、反抗的な態度や破壊的な行動が見られる傾向があります。
そればかりか、自己肯定感が低く、コミュニケーションが苦手です。そのためでしょうか。相手の立場に立って考えることが苦手です。このような愛着障害には2つのタイプがあります。
第1のタイプは、人との関係を過剰に避けたり警戒したりします。それだけ、他者とのコミュニケーションに対して拒否的な態度をとるということです。当然、人間関係が築きにくいということになります。つまり、コミュニケーション能力が低いため、生きづらさを感じているということでもあります。このような状態を「抑制型」と言います。
第2のタイプは、特定の人と情緒的な結びつきが築けません。そのため、他者と親密な関係を築けなくなります。そして、誰に対してもベタベタ甘えたり、依存的になります。それだけ、自分自身を受け止めてほしいのでしょう。その姿は、人に対して警戒心がなく無防備だということです。このような状態を「脱抑制型」と言います。
もちろん、愛着障害は何らかの虐待のみによるものではありません。基本は、養育者とどのような出会いと関係を形成したかにかかっています。では、なぜ、このような愛着障害が起こるのでしょうか。
それは、養育者の「べき」が問題なのです。この養育者の「べき」が子どもの人格形成に影響を与えます。幼い子どもにとって、養育者の「こうすべき」「こうあるべき」という要求は、人格形成に大きな影響を与えます。なぜなら、養育者の要求に応えることが「私が受け入れられることなんだ」「愛されることなんだ」と学習してしまうからです。
その結果、自分の自然な感情を抑圧し、素直な感情を出せなくなってしまうのです。そして、「自分が愛され受け入れられるためには、条件づけの愛を受け入れ、素直な感情を出してはいけない」と学習してしまうのです。こうして、子どもなりに養育環境の中で生き延びるための知恵となるのです。
このような養育環境で育つと、愛着がなかなか形成されません。愛着が形成されないということは「愛情の器」が形成されないということです。この「愛情の器」を「ラブ・タンク」と表現する人もいます。
私たちの心に「愛情の器」が形成されないと、他者の信頼や愛情を溜めておくことができなくなります。そのため、どんなに愛情を注いでも、ザルのように愛情の水が流れ、溜まりません。つまり、愛着障害は、愛情の器が形成されていないということです。
愛情の器が形成されていない人は、人が自分と関わってもらっていると安心します。しかし、人が自分と離れると「寂しさ」「孤独」などを味わってしまうのです。そのため、何かに、誰かに依存しないと安心できないのです。
その結果、「寂しさ」「孤独」などから解放され、安心を得るため、日常生活で万引き、薬物、暴力などの非行、自傷行為、学校不適応などの行動をとる傾向があります。なぜなら、何らかの問題行動を起こすと、人が関わってくれるからです。
それだけに、人間関係の持ち方や自分との関係に深刻な影響が出てしまうということでもあるのです。愛着形成(愛情の器の形成)は、人間関係の基礎の基礎になるもので、重要だということです。だからこそ、赤ちゃんと養育者との愛着関係が形成できているかどうかは、重要なポイントになるということです。
では、愛着形成(愛情の器の形成)が不十分な場合、どうしたらよいのでしょうか。そのためには、「本当の自分の気持ちを伝えてよいのだ」という許可を自分に与えることが必要となります。なぜなら、今まで「本当の自分の気持ちを出してはいけない」「自分の気持ちを出したら愛されない」ということを学習してしまっているからです。
しかし、1度学習してしまったものを解除し、修正することは、そう簡単なことではありません。そのためには、関わる者が自然な感情を言語化しながら「どうしたら本当の気持ちが相手に伝わるか」を一緒に考えることです。
小さな子どもの場合は、「こう伝えてごらん」と具体的に話してみることです。そして、「できたこと」を褒める(肯定する)ことです。これを繰り返すのです。時間がかかりますが、意味のあることだと思います。
以上のことから、「なぜ福音が届かなくなったのか」を考えてみましょう。それは、愛着(愛情の器)が形成されず0歳~3歳までの発達課題を残したまま成長してしまったためだと思われます。
どんなに神の愛と十字架を語っても、「愛情の器」が形成されていないため、神の愛もザルのように流れてしまいます。ですから、教会や牧師に求められていることは、愛着(愛情の器)を形成し直すということです。そして、この課題に取り組むことです。そうしないと、神の愛が届かないからです。
詩篇の詩人ダビデは次のように告白しています。
ダビデは139篇13~16節で「それはあなたが私の内臓を造り、母の胎のうちで私を組み立てられたからです。私は感謝します。あなたは私に、奇しいことをなさって恐ろしいほどです。私のたましいは、それをよく知っています。私がひそかに造られ、地の深い所で仕組まれたとき、私の骨組みはあなたに隠れてはいませんでした。あなたの目は胎児の私を見られ、あなたの書物にすべてが、書きしるされました。私のために作られた日々が、しかも、その一日もないうちに」と告白しています。
また、詩篇71篇6節で「私は生まれたときから、あなたにいだかれています。あなたは私を母の胎から取り上げた方。私はいつもあなたを賛美しています」、あるいは詩篇22篇10節で「生まれる前から、私はあなたに、ゆだねられました。母の胎内にいた時から、あなたは私の神です」と告白しています。ダビデは、愛着(愛情の器)が形成されていたのです。ですから、神の愛を受け止めることができたのです。
私たちが、母の胎の内で神の手によって組み立てられ、見つめられ、愛されていたことが分かるために、愛着(愛情の器)の形成が必要なのです。もちろん、十字架の愛が届くためにもです。
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