日常で怒りを感じたことがない人は、存在しません。もし、怒りを感じたことのない人がいたら、お会いしたいと思うくらいです。怒りを感じたとき、怒りを数値で表現してみるとよいと思います。すると、自分のうちに起こっている怒りのレベルを客観的に知ることができます。
そして「私は何に対して怒っているのか」を吟味することが大切です。そうすることによって「私は何に怒っているか」を言語化することが可能になります。なぜこの作業が必要なのでしょうか。それは、意外と「何に対して怒っているか」言語化できないモヤモヤした感情を抱いていることが多いからです。
例えば、「怒りたくないのに、怒ってしまう自分」や「怒るべきなのに、怒れない自分」があったりするものです。それだけ、自分のうちに起こっている怒りを整理することは大切なことです。なぜなら、自分のうちに生じる怒りや原因を知ることは、自分との関係性に大切なことだからです。それを知ることによって怒りを適切に処理することが可能になります。
逆に、私のうちに起こっている怒りを不適切に処理してしまうと、人間関係に問題が生じることがあります。そればかりか「社会的な死」に至ることさえあります。それだけ、私のうちに生じる怒りと向き合うことは大切なことです。これも、自分を愛する1つの姿ではないでしょうか。
そもそも、怒りは基本的に「防衛本能」です。また、原始的な反応でもあります。自分自身が何らかの危機を感じると怒りが生じます。どんな怒りでしょうか。動物であれば威嚇ということです。危険を感じた犬であればほえることによって威嚇します。猫であれば毛を逆立てます。
人間はどうでしょうか。毛を逆立てることはありませんが、怒鳴ったりします。こうして、戦闘態勢になってしまうものです。その時、自分の内側が一挙に緊張し、心拍数が高くなります。人によっては、手に汗をかく人もいるでしょう。このような姿は、危険を感じたときに生じる、自分を守ろうとする防衛本能です。このような怒りをコントロールすることも防衛機制の1つです。このコントロールする力を身につけることです。
怒りは決して悪いものではありません。不正に対して怒ることは適切な怒りの出し方です。問題となるのは、不適切な怒りの出し方です。不適切な怒りは、川の水が上から下に流れるように自分より弱い者に向かう傾向があります。それは、世界の歴史と自分自身が証明しているのではないでしょうか。現代社会に蔓延(まんえん)している怒りは、虐待、DV、クレーマーなどの現象によって知ることができます。
それにしても、具体的に怒りのエネルギーは、どこに向かうのでしょうか。順番はどうでもよいのですが、第一に自分自身に向かいます。第二は、他者に向かいます。第三は、モノに向かいます。私たちは、自分自身を振り返ってみると思い当たることが多々あるはずです。もう1度繰り返しますが、怒りは決して悪いものではありません。
しかし、今少し触れたように、不適切な怒りを出してしまうと、自分や他者を傷つけます。そして、自分と他者との関係を壊してしまうものなのです。また、モノに八つ当たりをして壊してしまったりします。このように、怒りの出し方を間違えると、さまざまな悪さをしてしまうものです。ですから、自分の怒りをコントロールする力を身につけることは有益だと思うのです。
私たちにとって怒りの原因は、どこにあるのでしょうか。例えば、私たちが不当な扱いを受けると怒りを感じます。それは、誰もが当然だと思う感情です。その時、私たちの内側に何が起こっているでしょうか。「私は不当な扱いを受けるべきではない」「不当な扱いを受けるような者ではない」という思いです(無意識)。
例えば、日常生活の中で、靴の並びが乱れていると怒りを感じることがないでしょうか。この時、私たちの内側に「靴はきちんとそろえて置くべきだ」という思いがあります。この「~べき」という核信念が問題を引き起こします。ですから、怒りは他者に原因があるのではありません。自分自身に原因があるということです。私たちは、自分のうちにある原因を探り、知り、修正することが求められるのです。怒りについて聖書はどのように語っているでしょうか。
聖書で怒りに関する最初の記録は、カインとアベルのささげ物に関することです。創世記4章5節に「だが、カインとそのささげ物には目を留められなかった。それで、カインはひどく怒り、顔を伏せた」とあります。
このカインの怒りの背景には次のようなことがありました。ある時、カインとアベルはそれぞれ神様へのささげ物を持って来ました。カインは、地の作物からささげ物を持って来ました。アベルは、羊の初子から最上のささげ物を持って来たのです。神様は、この2人のささげ物のうち、アベルのささげ物に目を留めました。そのため、カインは「ひどく怒り、顔を伏せた」というのです。
新共同訳は「激しく怒って顔を伏せた」と訳しています。カインの怒りをスケール化(数値化)すると、どのくらいでしょうか。創世記4章8節に「しかし、カインは弟アベルに話しかけた。『野に行こうではないか。』そして、ふたりが野にいたとき、カインは弟アベルに襲いかかり、彼を殺した」とあります。
カインは怒りのあまり実の弟を殺してしまったのです。この出来事から明らかに分かるように、怒りの数値は最高点です。カインは、怒りの出し方が大いに不適切です。カインは、怒りにコントロールされてしまったのです。
なぜカインはこんな行為に至ってしまったのでしょうか。創世記4章7節に「あなたが正しく行ったのであれば、受け入れられる。ただし、あなたが正しく行っていないのなら、罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。だが、あなたは、それを治めるべきである」とあります。
カインは、神様に不当な扱いを受けたと思ったのでしょう。神様はカインに「あなたが正しく行っていたのであれば、受け入れられる」とおっしゃっています。カインの心の中では「自分は正しいことをしたのだから評価されるべきだ」と思っていたのかもしれません。
自分の期待通りに神様が評価してくれなかった。そのため、カインは激しく怒り、「弟アベルがいなければ」と思ったのかもしれません。その結果、怒りが最高潮に達し、弟殺しという殺人を生んでしまったのです。怒りについて、パトリック・オサリバンという方は次のように言っています。
「誰かが私を利用したり不当に批判されると、私は怒りを感じます。怒りの最初の動きは大変良いもので、健全です。それは、私の自尊心と真実を見分けるセンスと正義感を回復し、再確立させてくれる感情のエネルギーの高まりです。私が不当だとみなすことに対して、『いや、それは真実ではない、あのふるまいは間違っている』と私の全身全霊が反応するのです。怒りという感情が伝えたいメッセージは、私の自尊心を取り戻すことであり、怒りは、それを実行する感情のエネルギーを私に与えてくれます」
「しかし、私の怒りが相手に溢れ出て相手の自尊心を攻撃するとなると、私は怒りのメッセージを見落としたことになります。怒りのメッセージは相手を破壊することではなく、私を回復させることになります。時間が経つにつれて、怒りは高慢や自己中心や虚栄といった偽りの価値を結びつけられてつまらないものになってしまいます。このような場合、怒りは関わる人すべてに害となります。怒りに結びついた『価値』は命に反するからです。このような価値は誰かを血祭りに上げずにいられません」(『行きづまったとき』より)
ヤコブ書に「人の怒りは、神の義を実現するものではありません」(1章20節)とあります。お互い自分の姿を振り返ってみるとよいのではないでしょうか。
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