日本人に多いパーソナリティーの1つである「受動攻撃型(性)」と教会生活の関係について見ていきましょう。私たちは時々、「良い子」が周囲を驚かせるような事件を起こすというニュースを耳にします。そのたびに「なぜだろう」と疑問を持つ方々が少なくありません。このような問題を起こすパーソナリティーは、受動攻撃型の人が少なくありません。
このタイプの傾向は、非協力的で頑固さがあります。そして、適切に自分の要求を出すことが苦手です。そのために、我慢して心の中に怒りをため込みます。そのため、時間とともにため込んだ怒りが大きくなってしまいます。お受験を経験した人に多いのも、このタイプのパーソナリティーです。
例えば、このパターンの人は、話し合いの場などで賛成し決定したことに従う約束をします。にもかかわらず、話し合いで決定したことに抵抗したり、意図的に期限を守らなかったりします。時には、話し合いに遅れたり、意図的に反対の行動をとることがあります。見事に言動不一致で、やっていることに大きなギャップがあります。このギャップに本人は気が付いていませんが、自己中心的な行動をとっています。それだけに厄介です。
そればかりか、この型の人は直接他者と衝突することに対する恐れを回避しようとします。心の内には、無力感と孤立感を抱えているためです。そのため、皮肉、無視、親密になることを避けたり、他者を称賛しない、批判的、妨害行為、遅延、頼んだことを何もしないなどの姿で表れます。
夫婦関係などにおいても同様なことが起こり得ます。妻は頭(かしら)である夫に従うのですが、頑固になって協力しない領域が生まれてきます。教会でも同じです。教会の話し合いなどでも自分の意見をなかなか言いません。そして、無言のうちに賛成します。一見、素直で良い教会員に見えます。しかし、自分のやり方でないと協力しないのです。時には、牧師を批判したり、皮肉を言ったりします。もちろん、他の教会員に対しても同様な言動をします。
この受動攻撃型のパーソナリティーは、非常に激しいものです。内に秘めた悪意をじわじわと浸透させるような陰湿さで、周囲に気付かれないようターゲットを狙います。本人にとって、ターゲットとするのは目の上のこぶ的存在です。なぜなら、「この人が居るからうまくいかない。この人さえ居なければうまくいくのに」といった攻撃欲求を駆り立てる存在が邪魔なのです。当然ですが、ターゲットにされた者はたまりません。
残念ながら、牧師の中にも受容攻撃型のパーソナリティーを形成している人が存在します。そのため、牧師が他の牧師や教会員をターゲットとして、攻撃したり排除する言動を見聞きすることが少なくありません。困ったものです。
なぜ、このような受動攻撃型のパーソナリティーになってしまうのでしょうか。このタイプの人は、子ども時代に養育者から口うるさくガミガミ言われた人が多い傾向にあります。なぜなら、養育者自身が子育てに自信がないからです。また、養育者が果たせなかった願いを子どもに期待して、ガミガミ言う人もいます。かと思えば、養育者のメンツで子どもにガミガミ言う人もいます。
このように、子どもは養育者から一貫性のない育てられ方をされてしまいます。子どもは、養育者からガミガミ言われると、生き抜くために自分の感情を抑圧してしまいます。そして、養育者の顔色をうかがうようになってしまうのです。そのため、人の言動に敏感になってしまいます。
こうして、子どもは怒りを心の中にため込んでしまいます。養育者が、このような関わり方で育ててしまったため、表面的には素直で良い子なのです。良い子ほど、自分の要求を出すことをやめて我慢することを覚えてしまいます。そして、与えられている養育環境の中で生き抜くために、パーソナリティーを適応させるのです。
そのため、養育者に愛されるための行動をとるようになったということです。それだけ、素直な感情や欲求を出すことを我慢しているため、心の中に怒りを蓄積してしまいます。その結果、限界を越えたときに怒りが爆発し、さまざまな悪さをしてしまうのです。
教会生活ではどうでしょうか。教会生活では対象となる相手に違いがあるだけです。その対象とは牧師です。ですから、牧師の顔色が気になります。そして、牧師に愛されるために行動するようになるのです。そのため、牧師が期待通りの評価をしてくれないと「愛がない」と言い出します。
逆に、牧師自身がこのパーソナリティーの傾向がある場合、教会員の顔色が気になります。また、牧師は心のうちで教会員から「先生は良い牧師です」という評価を期待しています。そして、教会員から期待するような評価がないと精神的に疲弊してしまうことが少なくありません。そして、自信を喪失してしまいます。
このような姿は、私たちと神様との関係性にも表れます。それは、神様の前で良い子になろうとするのです。そして、神様の期待に添うように行動しようとします。詩篇の詩人のように、なかなか自分の欲求や願いを訴えることができないのです。
イエス様は、ゲッセマネの祈りの言葉に「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください」(マタイの福音書26章39節)と祈ったとあります。イエス様は「この杯をわたしから過ぎ去らせてください」と素直な感情を適切に出しています。決して、イエス様は、父なる神の前に良い子になっていません。むしろ、人間らしい素直な感情を出しています。
さて、大切なことは対応です。問題なのは「受動」ということです。受動依存の場合は、自らの責任を回避してしまいます。受動攻撃は内面の頑固さです。この頑固さは人間関係において非常に大きな問題となります。なぜなら、全てが自己中心性から来るからです。
そのため、夫婦関係や教会生活においても問題となります。もう一度言いますが、全てが自己中心性から来ているためです。自分で問題に気が付いても、それが自己中心性によるものなので当然対応できません。自分で気が付いて対応したとしても、時計の振り子のように極端から極端へ動くだけで元に戻ってしまいます。
このような状態の中で「受動性」が「能動性」に変えられていくためには、神の愛がしっかりと私たちの魂の中に注がれることです。これが、受動性を能動性に変化させる動因となるのです。人間にはこれ以外ありません。
パウロは「ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださいます」(Ⅱコリント人への手紙9章7節)と言っています。このパウロの言葉は、受動性から能動性に変えるために大切なポイントです。ここに「心で決めたとおり」とあります。それは、自分で選び、その結果について責任を持つということです。自分が選択した結果について責任を持って受け止めることによって、弱さをしっかり受け止めることを可能にするのです。ここから神の像の回復のプロセスが始まります。
特に日本人に多いパーソナリティーの問題と信仰の在り方を探ってみました。何かの参考になればと思います。
「主はあなたに告げられた。人よ。何が良いことなのか。主は何をあなたに求めておられるのか。それは、ただ公義を行い、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むことではないか」(ミカ書6章8節)
◇