従順という言葉から何を連想しますか。別な表現をすると「従う」ということです。私が献身し神学校に入学した途端に求められたことは「従順」(従う)ということでした。
もちろん私だけではありません。すべての献身者に対して求められました。教会でも従順であることが求められました。私たちは、毎週土曜日になると派遣先の教会に赴いて行きました。その中には、従順という言葉で雑巾のようにボロボロになって帰って来る者たちが少なくありませんでした。まるで、従順の在り方が信仰のバロメーターであるかのようにです。
牧師に意見でも言うものなら「お前は高慢だ。そんな奴はいずれ駄目になる」などと言われ、自分の感情を抑圧し、涙と共に帰って来た人たちを何人も見てきました。そこで求められたことは盲目的服従ということです。
自分の意見を述べることは「古き自我で砕かれていない」と判断されたのです。これが聖化の恵みであると言わんばかりでした。つまり、イエスマンになってこそ聖化だということに他なりません。私は、「何と、教団や指導者たちにとって都合の良い理解ではないか」と心の中で思っていたものです。
十字架と復活の福音は間違いのないものです。しかし、組織を統制したりイエスマンを要請するために「従順」という言葉を利用することは、決してしてはならないことです。逆の立場で表現すると「服従」ということです。
盲目的服従(イエスマン)を求める人は、精神的にも霊的にも自己対話ができない者であることを露呈しているようなものです。このような人は、都合が悪くなると人に責任転嫁するのです。そのため、どれだけの人々の信仰を傷つけてきたことでしょう。
ヨハネの福音書8章32節に「そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします」とあります。十字架と復活の真理は、人を自由にするはずです。しかし、人を不自由にしているのはなぜでしょうか。考えてみる必要があります。
人々が求める従順を観察していると、その正体が分かってきます。人間が求める従順は「他者の意志、他者の要求に対して屈服する」ことだということです。ここで1つの問いが生まれます。それは、「なぜ、人は屈服するのか」です。
その理由は、「自分自身の評価を下げないため」ということです。あるいは、「自分の評価を上げるため」です。それは、人が置かれている環境の中で生き抜くための方法なのです。人は、生き抜くために、「自分の感情を抑圧し、素直な感情を出してはいけないのだ」と決断してしまうためです。
ですから、私たちが「従順が要求される現実と直面するとき」、相手からコントロールされているような感じを持つことがあります。この感覚は、私たちそれぞれの成育歴に大きく関係しているものです。
私たち人間にとって、しつけされることは大切なことです。それは、自分の欲求や感情を適切にコントロールすることを学び、人間関係の在り方を身につけていくことでもあるからです。
私たちは子どもの頃、自由に喜怒哀楽を表現していました。私たちが、自由に喜怒哀楽を表現しているとき、生き生き伸び伸びしています。この姿が自然な感情表現です。
そんな自然な感情に対して、養育者がしつけと称して日常的に「イヤだ~、イヤだ~といつまで言っているの、わがままはいけません」「いつまで泣いているの、情けない子ね」「いつまで怖がっているの、男の子でしょう」「誉められて喜んでいるのは生意気だ」などの言葉を使いながら関わり続けると「素直な感情を出してはいけないのだ。なぜなら、養育者から愛されるために感情を出してはいけない」「感情を出したら嫌われてしまう」ということを学習してしまうのです。
そのため、「怒ってはいけない」「喜んではいけない」「楽しんではいけない」「悲しんではいけない」など、素直な感情を出さなくなってしまいます。こうして、養育者の期待に応えなければと、従順になろうとしてしまうのです。
このような関わりを学習してしまうと、従順になることはイエスマンになることだと思い込んでしまうのです。そして、従順(イエスマン)になることによって、自分の価値や存在理由を感じるようになってしまいます。
最近のことです。私が受け持っているクラスの学生たちに「従順とはどういうことだと思うか」と質問をしてみました。この質問に対する学生たちの回答は、「相手の要求に応えること」「自分が我慢すること」「NOを言わないこと」「相手の指示に従うこと」などでした。
そこで次の質問として「では、なぜ相手の要求に対して応えようとしたり、我慢したりするのか」と尋ねてみました。すると、「評価が下がらないため」「高い評価を得るため」「素直な人と受け止めてほしいから」「自分の存在価値や理由を感じたいから」などでした。
これらを踏まえて、クラスでグループワークをしてみました。そこで明らかになったことは、「従順とはイエスマンになること」という共通理解があることでした。そして、素直な自分の感情を出してはいけないという心理が働いていることが明かになりました。
その結果、学生たちは互いに自然な感情を言語化することを試みてみました。学生たちの内には、泣き出す者たちもいました。それだけ自然な感情を抑圧し続けてきたということです。
私は次のような例文を読みました。ご紹介したいと思います。
同じ方向に泳いでいる二匹の若い魚が、偶然に向こう側からやってくる年上の魚と顔を合わせた。その年上の魚は、若い魚を見てうなずき、「こんにちは、若いの。水の具合はどう?」と聞いた。二匹の若い魚は、さらにしばらく泳いでから、そのうちの一匹がもう一匹の方を見て、尋ねた。「『水』って一体全体、何のこと?」(アルノ・グリューン著『従順という心の病い』12ページ)
この例話の「『水』って一体全体、何のこと?」という言葉が要点を言い当てているようです。私たちが、自分の感情を抑圧し、適切な出し方ができないと、次第に感覚が麻痺していくということです。そして、それが当たり前の感覚になり「『水』って一体全体、何のこと?」ということになってしまいます。この「水って一体全体、何のこと?」という言葉の背後に、抑圧された心の叫びを聴くことができるのではないでしょうか。
私たちは乳幼児期に置かれている養育者との関係の中を生き抜くために、自分の素直な感情を抑圧して生き抜いています。そのため、大人になっても同じ反応と行動をとってしまいます。そうでなければ、自分自身に危険が及ぶからです。
その危険とは、学生たちが感じていた「自分の存在価値や理由」「評価が上がるか下がるか」などの恐れと不安です。その恐れと不安を回避するため、自分の感情や要求は出してはいけないのだという禁止令を自分自身に命じていたのです。
それは、従順を求める相手に対して同意者となってしまうということに他なりません。その結果、自分の素直な感情などが他者によって支配され、自然な感情の感覚を出せなくなってしまったのです。これが、「水って一体全体、何のこと?」という感覚ではないでしょうか。
このような感覚になってしまうと、NOを発信することがなかなかできなくなってしまいます。そして、NOを発信することによって罪責感を感じてしまうようになります。その罪責感を感じないために従順であることが正義であると思い込んでしまうことがあります。
このようなことによってもたらされる罪責感は、聖書のいう罪なのでしょうか。そうではないはずです。これが、教会の歴史の中で、服従(従う)という言葉によってもたらされた負なるものの実体ではないでしょうか。では、健全な服従(従う)とはどんな姿なのでしょう。
健全な従順について考えてみましょう。この問題を考えるためには、「従順であれと要求する養育者や諸団体(組織)」に対して疑問を持つことから始めなければなりません。健全な従順は抑圧ではなく、抑制の世界です。健全な従順は、意見などの相違があっても、決定したことに調和した協調性を持って良き関係を築くことができるものです。これが、抑制です。
ヨハネの福音書8章12節に「イエスはまた彼らに語って言われた。『わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです』」とあります。イエス様は、「わたしに従う者は」とおっしゃっています。イエス様は、従う(服従)ことを強制したり、抑圧するようなことなどしません。自分の意思決定を重んじておられます。
また、ペテロは「あなたがたが召されたのは、実にそのためです。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました」(Ⅰペテロ2:21)と言っています。イエス様は「その足跡に従うようにと、模範を残されました」とあります。
また、イエス様はゲツセマネの祈りの中で「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください」(ルカ22:42)と祈りました。イエス様は、心に葛藤を感じながら父なる神にお従いしたのです。
このイエス様の姿に、適切な感情コントロール(抑制)の姿の模範を知ることができるのではないでしょうか。そればかりか、従順(従う)とは主体的なものであることを知ることができます。
もう一度、従順とは何かを考えてみるとよいのではないでしょうか。
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