1855年に香港で発行された漢文の聖書「代表訳本」が今年6月、京都の寺で見つかった。「世界でもわずかしか現存せず、貴重な1冊」と専門家は注目している。
その聖書が見つかったのは真宗大谷派(本山・東本願寺、京都市下京区)の円光寺(同左京区)。同派の学僧、樋口龍温(香山院龍温、1800~85年)が65年に江戸で入手し、キリスト教を研究するために使っていたと見られる。
龍温の子孫にあたる円光寺の住職・樋口浩史氏が納屋を整理していたところ、古い長持ちの中からこの聖書を発見した。しっかり箱に入り、丁寧に布に包まれ、虫食いなどがまったくない非常に良い保存状態だったという。
旧約・新約の4冊からなり、各分冊の表紙に「咸豊(かんぽう)伍(五)年」(清朝の元号、1855年)、「香港英華書院印刷」と記されていた。日本聖書協会聖書図書館(東京都中央区)の調べにより、この聖書は上海と香港で出版された「代表訳本」と判明。また、64年に起きた蛤御門の変(はまぐりごもんのへん)により、龍温がその2年前に初めて手に入れた聖書を焼失し、翌年、再度買い求めたものだと、この聖書の入っていた箱の書き付けにあったという。
禁教の時代、中国で出版された聖書は、来日した宣教師が携えていたとされるが、龍温はどのようなルートでこれを入手したのだろうか。中国近代キリスト教史を専門とする東京外国語大学准教授の倉田明子氏(日本同盟基督教団小竹町聖書教会会員)に、今回発見された聖書について話を聞いた。
――「代表訳本」について教えてください。
「代表訳本」というのは、漢文版聖書のバージョンの1つの名前です。この前に完成していた全訳は言葉遣いや文体が未熟で、アヘン戦争(1840~42)後に中国に移り住んだ宣教師たちが共同で翻訳委員会を作って改訂作業を進めました。それで完成したバージョンの1つがこの代表訳本となります。漢文としては完成度が非常に高く、日本の文語訳聖書に近い文体です。
1852〜53年に上海で刊行され、同じものが香港でも印刷されています。その香港で刊行された代表訳本の旧約聖書が出たのが55年。今回、円光寺で発見された聖書の旧約部分はその時のもので、香港で刊行された旧約聖書の初版にあたります。代表訳本自体はそんなに珍しいものではないのですが、55年に香港で出た初版の旧約聖書であること、しかもそれが新約聖書と一緒に綴(と)じられ、革張りできれいに製本されている点では、世界でもたいへん珍しく、残っているのは数点だと思われます。
――今回発見された聖書では「神」を「上帝」と訳していますが・・・。
今回の発見により、刊行直後の代表訳本の聖書が日本に流入していたことが裏付けられましたが、代表訳本は「神」を「上帝」と訳していることから、日本ではあまり普及しなかった聖書だと考えられます。神を「上帝」と訳したのは英国人で、中国の古代信仰にある用語を充てています。一方、米国人は「神」を使っており、米国人宣教師が多かった日本では、米国人が訳した「神」バージョンの聖書が多く使われていました。
ただ、「神」バージョンの漢文聖書が完成し、中国で発行されるのは63年のことです。そのため、日本のプロテスタント伝道が始まった59年からしばらくの間は、代表訳本聖書が日本でも使われていたのだと思いますが、60年代前半の時点で日本に広まっていた数はわずかだったはずです。それにもかかわらず、仏教徒である龍温は2回も聖書を手に入れており、何か執念のようなものを感じます。
――禁教の時代、龍温はこの聖書をどのように手に入れたのでしょうか。
仏教から見てキリスト教は、ある種、警戒する宗教で、そのキリスト教がどういうことをやっているのか知りたい。そのために聖書を買って研究するということやっていたのだろうと思われます。龍温は、当時、大谷派が設置していた「耶蘇防禦掛(やそぼうぎょがかり)」の担当だったこともあり、かなり熱心にキリスト教を研究していたと言われています。
入手経路については、樋口住職が話すには、「東本願寺は幕府とのつながりが非常の強いので、幕府が没収していたものを内々にもらったのではないか」と。確かにあり得ることですが、この聖書は革張りで、とても立派なものです。この聖書が開港後の横浜にいた宣教師宛てに直接送られたものだとすれば、私は、龍温が宣教師のところで買ったか、宣教師のところに来たものを何らかのルートで買いに行った可能性もあるのではないかと考えています。
この聖書の発見について取り上げた「京都新聞」の記事によると、「明治になってからもキリスト教に対する研究は進んでいく」と書いてあるのですが、龍温が研究を始めたのは62年で、この年代を考えると、この龍温という人はかなり早い段階で個人的に何らかの形でキリスト教に対する警戒心を持っていたのかなと思います。
明治元年になると、神仏分離令により廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)の運動が全国に広がり、仏教が危機を迎えるようになります。その頃、大谷派は、キリスト教研究も目的にして「護法場」を設置し、龍温はその運営の中心を担っています。そこでは僧侶の教育の近代化を目指しており、これが大谷大学の源流となっています。
龍温は聖書を買い求め、原本を読み、しかも聖書だけでなく、かなり多くのキリスト教関連の本を集めていたと言います。そこには、「大谷派を守らなければいけない」というよりも、「耶蘇(やそ)から仏教を防御しなければ」というもっと壮大な確固たる思いがあるように思います。そうでなければ、わざわざ2冊目を求めて京都から江戸に行き、当時禁教と言われたキリスト教の聖書を買い求めた理由が分かりません。
――この聖書の発見によって今後どのようなことが明らかになりますか。
龍温の生涯とこの聖書を照らし合わせて、また聖書だけでなく、実際に龍温がキリスト教批判をいつ書いたかなどを併せて研究していくと、この時代の仏教、特に東本願寺がキリスト教をどう見ていたかが明らかになってきます。日本史、広い意味での宗教史を考えた時に、これまでの龍温研究家とは違う発見もできるのではないでしょうか。
私の専門である中国のキリスト教史から言うと、1860年代以降の代表訳本は、大学図書館等で持っているところはありますが、50年代の代表訳本はありません。香港で刊行されたばかりの代表訳本が日本に入ったということは、日本と中国の宣教師同士のつながりの深さも感じられますし、また、流入ルートが横浜なのか江戸なのかを考える上でも面白いかなと思っています。龍温は江戸で買ったと書いていますが、当時、聖書が一番あったと思われるのは横浜です。それをなぜ江戸で手に入れたのか、聖書やキリスト教知識の広がり、という点からも興味深いところです。