織田信長の治世、ローマに派遣された天正少年使節の1人、千々石(ちぢわ)ミゲル。その墓とされる石碑(長崎県諫早〔いさはや〕市)の発掘調査が8月20日から始められ、8日、そこから「ロザリオ」(カトリックの祈りの時に使う数珠状の道具)とみられるガラス玉などを発見したとの調査結果が発表された。
4人の少年使節の中でミゲルはただ1人、キリスト教信仰を捨てたとされてきたが、ミゲルの墓からキリシタンだったことを示す副葬品が出てきたとすれば、その通説は覆されることになる。説明会で発掘調査実行委員会の立石暁会長(長崎総合科学大理事長)は、「驚くべき発見になった。ミゲルについてはこれまで謎とされてきたが、歴史を書き換える発掘となるかもしれない」と語った。
今回見つかったのは、穴が開いた直径2~5ミリのガラス玉計59個と、半円形のガラス板(長さ約3センチ、幅約1・5センチ)1枚。欧州で作られたアルカリガラス製らしいガラス玉は、すべてに紐(ひも)を通すための穴が開いている。青や白、紺などの5色でカラフルなため、仏教で使われる数珠ではなく、ロザリオの可能性が高いといい、「ミゲルがローマ教皇に謁見(えっけん)した際に贈られたロザリオではないか」と説明する。またガラス板も「聖遺物入れ」の蓋(ふた)の一部と推定された。
しかし9日、現地を視察した大分県立歴史博物館主幹研究員の後藤晃一氏は、「直径2ミリでは、祈りの回数を数えるためのロザリオとしては小さすぎる」と見直しを示唆した。「ガラス板とセットで出土したことから、信者が身につける小さな聖画を入れる繊維性のペンダントの部品かもしれない。ガラス蓋と飾りのビーズとするのが妥当だろう。ガラスが作られたのも欧州かどうか、成分分析が必要だ」と即断を避けた。
諫早市多良見(たらみ)町伊木力(いきりき)地区にある石碑(高さ約2メートル)は2004年、元長崎歴史文化博物館研究グループリーダーの大石一久さんによって発見された。同地区が、ミゲルの仕えた大村藩主から与えられた土地であったこと、石碑の裏に建立者としてミゲルの子(四男の玄蕃〔げんば〕)の名前が刻まれていること、ミゲル夫妻とみられる2人の戒名と没年月日などが刻まれていることなどから、ミゲルの墓とほぼ特定された。
その後、地道に調査が行われ、16年11月に発掘調査をするための実行委員会が発足。今回の発掘調査では、石碑の土台の下、地下約1・5メートルのところに蓋(ふた)石があり、その下に縦1・1メートル、横1・2メートルの空洞が発見され、棺を取り囲む石積みの規模から、身分の高い人の墓であると推定された。その周囲からは、金属製の金具3点(長さ約3~10センチ)、棺のものと思われる木片、さらに人間のものとみられる歯や骨片も複数出土している。今後、これらについても鑑定依頼し、成分や年齢・性別など調べていく。
千々石ミゲル(1569頃~1633年?)は、日本初のキリシタン大名で長崎港を開いた大村純忠のおいにあたる(父親が純忠の兄)。本名は紀員(のりかず)で、11歳の頃、洗礼を受けて「ミゲル」(ポルトガル語で天使ミカエル)の洗礼名を名乗るようになり、同年、神学校「有馬セミナリヨ」で学び始めた。
1582年、信長の治世でキリシタンが優遇されている中、巡察師(宣教地の現状を報告、指導する立場)ヴァリニャーノが日本宣教の成果を直接伝えるためローマに使節を送ることを提案。九州のキリシタン大名、大友宗麟や大村純忠、有馬晴信の名代(みょうだい)として、セミナリヨで学んでいる者の中から4人の少年が選ばれた。伊東マンショ(主席正使)、千々石ミゲル(正使)、原マルチノ(副使)、中浦ジュリアン(副使)である。
長崎を出港して2年半後、ポルトガルの土を踏み、スペイン国王フェリペ2世らの歓迎を受けながら見聞を広め、翌年、教皇グレゴリウス13世と謁見。10代という多感な時期を異国で過ごし、8年後の1590年に帰国した時には20代前半の若者となっていた。
しかし、出国した年に本能寺の変で信長が没すると、豊臣秀吉が天下を取り、1587年、大村純忠と大友宗麟が相次いで死去した直後、バテレン追放令を出すなど、日本のキリシタンを取り巻く状況は激変していた。
反キリスト教的な側近によってキリシタンに猜疑心を持つようになった秀吉は天正少年使節になかなか会おうとしなかったが、キリシタン軍師、黒田官兵衛が尽力し、京の聚楽第(じゅらくだい)での謁見を実現したことは、フロイス『日本史』の中で報告されている。また、その子の黒田長政も「日本の公子(ミゲル)らと語(り得た)ことを無上に喜び、ほとんど夜を徹して、彼らの見聞したことや、教皇やローマの宮廷のことなどを聞きながら彼らとともに過し、彼らが語ったり見せたものを格別の好奇心をもって聞いたり見たりした」(同)。そして、自分の領地である豊前への伝道に熱意を持つようになったという。
その後、ミゲルらは天草に戻ってコレジオ(高等神学教育機関)で勉学を続け、93年には共にイエズス会に入会した。しかし、1601〜03年の間(04年以降、名簿から削除されている)にミゲルはイエズス会を脱会し、名前も千々石清左衛門と改めている。
これまで棄教の理由は知らされず、その晩年は謎に包まれていた。そのミゲルの生涯に新たな光を当てたのが、ミゲルの石碑を発見し、調査を続けてきた大石さんだ。石碑が発見された一帯は、大村藩の記録によると、潜伏キリシタンが非常に多かった。このことからミゲルは棄教していなかったのではと大石さんは考え、棄教後のミゲルの行動を詳細に追い、キリスト教との関係を丁寧に洗い出す。
そして2015年、その研究成果を著書『天正遣欧使節 千々石ミゲル―鬼の子と呼ばれた男』(長崎文献社)としてまとめ、「ミゲルは修道会からは脱会したが、信仰そのものを捨てたわけではなかった」という説を打ち出した。ミゲルはその後も常にキリスト教徒と共におり、当時のヨーロッパの宣教師の間でもミゲルの棄教については意見が分かれていたという。今後さらなる発見に期待が高まる。