1865年に浦上の潜伏キリシタンたちが新しくできた大浦天主堂に訪ねて来て、プティジャン神父(1829~84)に自分たちが潜伏キリシタンであることを告げたという歴史的な事件があったことを前回報告しました。その後、それまで隠れキリシタンであった多くの人たちが勇気を得て、公に信仰を告白するようになりました。
そのため、1867(慶応3)年、キリシタン信仰を表明した浦上村の村民たちが江戸幕府の指令により、大量に捕縛されて拷問を受けました。江戸幕府のキリスト教禁止政策を引き継いだ明治政府の手によって、村民たちは全員流罪となりました。これがいわゆる「浦上四番崩れ」というものです。まず、信徒の中心人物114人を津和野、萩、福山へ移送することが決定されました。以降、続々と長崎の信徒たちは捕縛されて流罪に処されました。
明治元年から6年まで、合計3394人が流され、613人が殉教し、1011人は苦難に耐えきれず、あるいは子どもをふびんに思ってなど諸事情から棄教するという選択をしました。これらの人々は西日本の22カ所に流刑され、土佐にも116人のキリシタンが流刑されて来ています。
彼らは流刑先で数多くの拷問・私刑を加えられ続けましたが、それは水責め、雪責め、氷責め、火責め、飢餓拷問、箱詰め、磔、親の前でその子どもを拷問するなど、その過酷さと陰惨さ・残虐さは旧幕時代以上であったといわれています。現在、高知市にある江の口カトリック教会は、土佐に流されたキリシタンたちを記念して建てられた教会であります。
生き残った信徒たちは流罪の苦難を「旅」と呼んで信仰を強くし、禁教令が解かれた後、1879(明治12)年に、故地・浦上に帰って行きました。すべてを失った彼らは、それでも迫害が終わったことへの喜びと感謝と信仰の証しから聖堂(浦上天主堂)を建て始め、数十年かけてついに東洋で2番目に大きい教会堂を建て上げたのでした。
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