日野江城跡の次に訪れたのは、そこからバスでほんの15分くらい南へ下った島原半島の南端に近い原城跡です。そこが、かの有名な島原の乱(天草島原の乱ともいう)の舞台となった所です。周りを海に囲まれた島のような半島の崎に原城は建てられていました。
ここでキリシタン弾圧と年貢の締め付けに耐えかねた領民たちが歴史上最大規模の一揆を起こしたのでした。1637(寛永14)年12月11日のことです。一揆の頭に当時まだ10代半ばであった天草四郎少年が選ばれました。一揆は、たんだん大きくなり人々は荒れ果てていた原城に集まり、その数は4万5千人にもなったといわれます。幕府も驚いて方々の軍を繰り出し、その数21万人にもなったといわれます。
農民たちは死に物狂いで戦い、幕府は一揆を鎮めることができず、兵糧攻めをすることとしました。さらには、長崎に停泊していたオランダ艦船の応援を命じて、海から艦砲射撃をしたのでした。そのために、約半数の農民たちは殺されたといわれています。そして、ついに兵糧攻めから88日目、1638(寛永15)年4月12日に一揆は終わりを告げました。
多くの人々は断崖から海に身を投げる道を選びました。そして幕府が最初に処刑にしたのが、天草四郎とその家族たちでした。四郎の母は洗礼名:マルタといって50歳、23歳の姉と8歳の妹が処刑され、長崎で見せしめにされました。そして残った者たちも女性、妊婦、赤子を含めて全員処刑されてしまいました。
この時から幕府はキリシタン弾圧をますます激しく行うようになり、鎖国政策を世界に対して強めていくことになりました。スペインやポルトガルに対する警戒感からキリシタン弾圧が徹底されていくのですが、その犠牲者となったのは、貧しい農民や漁民たちとその家族であります。
これらの人々が望んでいたことは別に大きな野望ではなく、ただもう少し人間らしい暮らしを求めていただけだと思います。この人々のいのちを奪った島原藩と幕府の責任は大きいと思います。
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