私たちの一行は13人で長崎新空港に集合してから、まず初めに島原半島の東端にあります島原城を訪ねました。この島原城というのは1618年に五条(奈良県)からこの領地に入った新興大名の松倉家が、当時4万石であった領地を10万石にしたいという野望を持って過分な城を築いたようです。
そのために、年貢や人頭税、そして通行税をはじめとしてありとあらゆる税を過重に領民に納めさせていきました。日本の歴史上最大規模の一揆である島原・天草の乱というのは、そのような重税に苦しめられていた農民たちの反乱でありました。
島原半島は「キリシタン王国」といわれるほど、キリシタン文化が花開いた場所でありました。ですから、キリシタン禁令が出てキリシタンたちは迫害を受け、しかも重税で締め付けられ、どうにもならない苦境からキリシタンたちが反旗を翻した結果が、あの天草四郎を中心に幕府と戦った悲劇の争いであります。領民たちはキリシタンの理想が実現できる自分たちの王国を築きたいと願うようになっていったのでしょう。
1人の新興大名の野望が何万人という領民たちを滅ぼしてしまう結果になったということを知り、指導的立場にある人々の思想と行動の在り方がいかに重要であるか、思い知らされました。
皮肉なことに、この島原城には現在、キリシタン資料館があって、キリシタンたちが所有していた大切な宝物が保存されています。その中に多く見られたのは、いわゆる「マリア観音」といわれる像です。
キリシタンたちは、表向きは仏教徒として生活しつつ、観音様の中にマリアと幼子イエス様の姿を描いて、内面的にはキリシタン信仰を保持していったのでした。しかし、江戸時代にキリシタンの迫害が激しさを増すにつれて、幼子イエス様の姿が次第に消えてゆき、マリアだけが観音様の姿に見せかけて大切にされていくようになったのでした。
上の写真には幼子イエス様と一緒のマリア観音像とそうでないマリア観音像が見られます。これほどまでにして自らの信仰を隠していかなければ身が危険であったのですね。信教の自由ということがいかに重要なことでしょうか。
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