次の日、私たちはいよいよ長崎に入りました。まず、西坂という丘にある日本26聖人殉教の地に参りました。その日は朝から激しい暴風雨で、傘を差すことも困難なほどでした。
ここで1597年に豊臣秀吉の命令で外国人宣教師・修道士6人、日本人修道士と信者20人が処刑されることとなりました。そのうち24人は京都・大坂で捕縛され、京都で左の耳たぶを切り落とされ、厳冬時期に歩いて長崎へ向かわされました。見せしめのためです。
1597年2月5日(慶長元年12月19日)の朝、ひどい霜の中、3里(約12キロ)の浦上街道を歩き、午前10時ごろ、西坂の丘に到着。すぐに十字架にかけられ、槍で両脇を突かれ、この26人は殉教しました。
一行の中に12歳の少年ルドビコ茨木がいるのを見た、長崎奉行所の寺沢半三郎は幼い少年を助けようと思い信仰を捨てるよう言ったが、ルドビコ茨木はこの申し出を断りました。また、パウロ三木は死を目の前にして、周囲を取り囲む約4千人を超える群衆の前で十字架にかけられたまま最後の説教を説いたといわれています。
この26人の殉教者の遺体はその後、十字架にかけられたまま数カ月放置されました。これも見せしめのためでした。ところが、長崎のキリシタンたちの信仰は弱るどころかかえって強められたといわれています。殉教者たちがキリシタンたちの信仰の憧れの対象になったのでした。
そのため、幕府はこれ以降は十字架刑はやめて、斬首、火あぶり、穴吊りといった処刑の方法をとるようになりました。西坂の地ではその後、続いて多くのキリシタンが殉教していきました。
日本26聖人記念碑の後ろに記念会館があるのですが、その入り口にロレンソ・ルイスというフィリピン人の像があります。この方は日本に最初に来たフィリピン人で、この西坂で殉教したのでした。フィリピンでは最初の殉教者・聖人として広く知られています。
このあまりにも凄惨な殉教の歴史を記念する場所で、1つだけ希望の光が差し込んできたのは、片隅にあった小さな碑(写真)に書かれてあった「愛は死よりも強し」という言葉でした。
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